文章が必要だった

昔から忖度する人間だった。こどもの頃から。
期待に応えたかったし、必要とされたかったし、裏切られたくなかったから。
小さい頃から本だけは読んでいた気がする。暗いところで本を読むから目が悪くなったんだと小学一年生の頃に言われた。
5、6歳の頃は決まった日にくる移動図書館が楽しみで、あれはいわゆるワゴン車だったのだろうか、見開きページみたいにぱかっとひろがるあの車には、たくさんの童話や神話や冒険、知識が詰まっていた。絵本をトレースして幼稚園で紙芝居として披露したこともあったっけ。あの時、お友達に"見て描いた"と嘘をついたことをよく覚えている。見て描いたほうがうまく行ったところもあったけれど、ほぼほぼうつし描きだった。嘘をつく時どうしようもなくソワソワして顔が火照って恥ずかしくなるのは今でも変わっていない。嘘をつくのが下手なおかげで、嘘をつくのは苦手になった。
日記には嘘を書く必要がなかった。ただ思ったことを言葉に出来る、たったその一つのことがどれほどの安心感を私にもたらしただろう?
毎日好きなだけ書いてよかった。2ページ分でも、2行でも、2文字でも良かった。饒舌になっても寡黙になっても良かった。誰にも心配されることはなかったから。もちろん怒られたり悲しませることもない。喜ばせる必要も。
必要に駆られない、ということがどれだけ自由で尊い行為だったのか今更よくわかる。そこにあったのは承認欲求や自己顕示欲ではなく、ただただとめどなく世界から注がれる何か、自分の中から溢れてくる何かを、毎日どうにか形に、ひとつの感情として組み立てようとしていた私の懸命さだった。

今こうしていると、こうしている、というのは言わずもがな、書いていると、ということなんだれけど、こうしているとよくわかる。
わたしは壁にぶつかるとどうしようもなく文章を書きたくなるのだ。自分の感情や状況がわからなくなると、視界がぼやけると、書きたくなるのだ。一言が見つけられないばかりに、何行も書かなければならなくなってしまうのだ。
大人になって文章をだんだん書かなくなっていったのは、寂しいや虚しいや嬉しい、で済んでしまう便利さ故かもしれない。一言に詰められる感情の広さや奥行きは10年前の何倍にもなっている。
同じように生きてきた人たちと一緒に過ごしていると、小さな言葉で大きな意味が伝わるようになる。伝えるのには簡単な言葉で十分になった。伝えることが、伝わることが、最重要事項となってしまった。
この懸命さは、伝えたいが為ではなく、自分の世界を構築する為の行為だ。表面をさすってごまかしたくないと思う私の何かだ。

作文や感想文が好きだったのも媚びる必要がなかったからで、書いているときは誰のことも考えなくていいからだった。目の前には原稿用紙と自分の筆跡のみ、それがどれだけ安心できることだったか、もちろん当時は露ほどにも思わなんだけれど。
誰かに何かを思わせようとする文章は臭う。

自分のための言葉が必要だった。
サンドバッグのように人の話を聞き続け、人のノリを浴び続け、人のテンションに合わせ続けて、人の為に言葉を使い、私自身は誰にどんな話をすればいいのかもわからなくなっていて、ただ話を聞いてもらうことがこんなにもハードルの高いものだったのかと、自らのストレスがどこからくるものなのか、対処法もわからずにただ苦しんでいた。
ただ書けばよかった。
私には自分の為の自分の言葉と文章が必要だった。

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