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2024/1/31産まれて良かったか否かについての私見

「産まれる」と言うのは哺乳類特有の言葉なのかもしれないな。と帰宅のために夜道を歩いていて思った。

私は両親にとっての第一子、長男、跡取り。
きっと誕生の折には喜ばれたに違いない(そう思いたい)。
比喩ではなく見事な玉のような大きな赤ちゃんとして世に出てきた私は、今も玉のような姿を懸命に維持している。

ここまでの道のりは長く険しく、順風満帆ではなかったとは思うが、そう思うのは本人だけで、実は他の人も同じように順風満帆ではなく、長く険しい道を懸命に進んできたのだと思う。

さて、祝福の中この世にでてきたえぞひぐま少年は本当に産まれて良かったのか。産まれてすぐに亡くなるのは自分でも可哀そうだと思うので、産まれるか否かで考えたいと思う。

女の子にフラれるたびに生まれてこなきゃよかった、死んだほうがましだ!と思ったのも数知れず、受験で失敗するたびに自分の才能や運のなさを恨んでは生まれてこなければよかったと思ったり、大体悪い事が起こるタイミングで生まれた事を悔やむので、産まれた事を悔やむのにも慣れた人生だなと思ったりもする。

一方で生まれて良かった!と思うのはいい事があった時で、これはそんなに多くないので、例えば宝くじの高額当選でも体験すれば思うのかもしれないが、当たったら当たったで「もう少し早く当たってくれれば人生変わったのにな~」と思うに違いないくらい欲深いのでこの先、生まれて良かったと思う日が来るかどうかは怪しい。

この歳になると生まれて来た事を考えるより、死に方を考える方が多くなる。迷惑をかけないように、残せるものは残してあげてとか。
そうか、これが終活か!と気づく(気づくのが遅いがみんな通る道か)。
しかし死に方を考えると言う事は、実は生き方を考える事ではないかと哲学的に考えたりもする。

産まれて良かったか否か、それは自分が判断する事であると同時に、大切な人が感じる事でもあると。
好きな女の子にフラれまくった三振王時代のえぞひぐま青少年、よくぞ生き抜いてくれた!と死ぬ前に思えるようにこれから先を生きようと思う。