物語美術館の写真素材2

『わたしの物語美術館へようこそ!』前編(note短編小説)

 わたしの初恋の場所は、“物語美術館”だった。
 なぜ、花弁が舞い踊る、満開の桜の木の下ではなく、歓声と熱気が渦巻く学園のグラウンドでもなく、蜂蜜色の光に包まれた放課後の教室でもなく、森閑の森と化した夕暮れの図書室でもなく、
無邪気な音たちが戯れる音楽室でもなく、“物語美術館”という摩訶不思議で聞き慣れない場所なのか、それはわたしにもわからない。
 けど、その摩訶不思議で聞き慣れない場所で、わたしは生まれて初めて恋をしたのだった。
 しかも初恋の時季が、大学二年生の夏休み前だった。
 大学二年生の夏休み前に、物語美術館で恋を知った、
というこの事実だけが、わたしにとっての最初で最後の学生時代もとより、青春という色と形をようやく認識することが出来た。
 それまでのわたしにとって、学生時代≒青春というものは、玉虫色の泡が弾けるものでしかなかった。まして恋というものには到底無縁だと思っていた。そんなわたしが物語美術館で、〈彼〉と出会ったことで、わたしの心の花壇に初恋の華が咲いたのだった。
 ただ、彼との想い出の欠片は、極めて小さい。
 けど、今もその大切な想い出の欠片は、
 わたしの記憶の引き出しの中で静かに眠っている。
 わたしは時々、記憶の引き出しの中を覗いてみる。
 想い出の欠片は、草原でうたた寝をしているかのように安らかな寝顔だ。
 その安らかであどけない寝顔を見ると、
 いつも自然と微笑みが溢れてくる。

     ☆     ☆     ☆

 あれはたしか、わたしが大学二年生の夏休みになるもっと前――。
 そう、七月に入る更に前の、6月下旬――そこから始まる。
 何の講義科目だったのか――今ではそこに靄がかかってしまっている。
 ただ、崩壊国家についての歴史と因果関係といった内容だったことと、
それを受講する、学生らが集まる教室の様子と、教える気があるのかないのか判然としない先生の話し方や表情は、今でも明確に憶えている。
 わたしは、少し黴臭い、とても古びた大教室で、
 先生が吐き出す言葉の色を眺めていた。
 聞くのではなく、聴くのでもなく、ただ眺めていた。
 周囲の学生を見ていると、
 わたしのように先生の言葉の色を眺めているだけの人もいれば、
 自分だけの世界に引きこもる人もい、あるいは糸のように繋がれた友達という世界だけで娯楽を堪能する人もいた。
 授業中の学生個人らが創る世界は、歪んだ不協和音を生み出し、大教室を大きく揺らし、講義は、すでに手の施しようがないほど崩壊していた。
 そんな崩壊講義の教室の光景を、先生は特に気にすることもなく、
注意をするどころか、先生までもが、自分だけの世界を見つめて黒板に向かって、ただ、ブツブツと言葉をこぼしているだけだった。
 調理も味付けもされない先生の口からボロボロと溢れ出ていく言葉たちは、塵のように行くあてもなく、ただ無意味に空中を漂っては、ひっそりと寂しく消えていくだけだった。
 初回の講義の時こそわたしは、先生の投げる言葉を受け取って飲み込みたい、と思っていても、肝心な先生自身が、
全然関係のない方向に言葉を投げたり、自分の周囲だけに、言葉をこぼすだけなので、わたしはそれを受け取りようも、拾いようもなかった。
 よって、講義内容そのものが、セミの抜け殻のように空虚で、無機質だった。

 神聖な教会の鐘の音のような終了のチャイムが鳴り響くと、待ってましたとばかりに、次々と学生たちが目的の場所へ行くために、大教室をそさくさと出ていく。
 先生も喜怒哀楽が曖昧模糊とした表情で、教室を出ていった。
 途端、教室内を廃墟のような静けさがダムのように満ち溢れ、
わたしは勢力を上げる静けさに飲み込まれた。そんな中で、わたしはため息を吐き、筆記用具をしまっていると、
「コトバー!」
 と、後ろからわたしの名前を愛称で、頗る元気よく呼ぶ声が聞こえた。
 声の主は、快晴の夏空のように澄んだ声が特徴だった。
 わたしはたしかに言葉を話すし、時に言葉を操る。
 そして、わたしの名前は言葉と書いて、コトバとも読むけど、
コトバという読み方が正解ではない。本来のわたしの名前は、“詩色言葉”と書いて、(ししき ことのは)と読む。
 そのわたしの名前を、無垢な愛情で撫でるような愛称で呼ぶ人物は一人しかいなかった。
 振り返ると、そこには水を浴びて笑う花のような笑顔の友華がいた。
 愛くるしい子犬のように、人懐っこい顔立ちもまた特徴的だった。
 廃墟のように静まった教室で見る友華は、
 偶然生き残った一輪の花のようだった。
 この日も、季節にあった、水色のスキニーデニムと、お腹が少し見える、白いショート丈のTシャツという服装と、爽やかなグレージュカラーの外ハネボブなヘアースタイルがマッチしてい、重い曇り空だったわたしの心が途端に浄化され、快晴のように軽くなった。
 彼女は“繋花友華”と書いて、(つなぎばな ともか)という。
 友華とは、大学一年のフランス語の授業で一緒になり、仲良くなって友達になり今に至る。
 大学時代の休日、わたしは友華によく誘われて、モールでのショッピングはもちろん、アニメイトや、ゲームセンター、さらには、メイド喫茶に行くこともあれば、思い切ってコミケに行くこともあった。
 友華は、いわゆる今でいうところのオタク系女子だった。
(もちろん今も健在)
 更に、わたしがそれまで知らなかったライトノベルのいろはを教えてくれたり、読み終わった最新のラノベを貸してくれたのも友華で、
友華というキャラクターがすでにラノベの一部のような気さえした。
(わたしが大学当時、世間での、ラノベの知名度はまだまだ希薄だった……)
「コトバ次の日本民俗学概論の授業、あたしと一緒だよね。一緒に教室いこう!」
「うん!」
 次の日本民俗学概論の講義のために、わたしと友華は別棟に向かおうと、十人十色の学生が行き交うキャンパス内を移動している時に、わたしはつい、
「なんだか、大学の講義って大学入学する前とは思ってたのと違うね」
 と、わたしはわたしの不満と失望が入り混じった言葉が、気づくと口元から漏れていた。
「ほぇ!? そうかなぁ~?」
「そうよ……なんか面白みに欠けるというか、つまらないというか……」
「えぇ~! そんなことないよぉ~。あたしは全部の講義が楽しいと思うなぁ♪」
「……それ本気で言ってるの? 周りを見てると、なんだかまともに先生の話を聞いてる人が少ないような気がするんだけど……」
「そうかもだけどぉ、中には楽しいってあたしみたいにワクワク興味を持つ人だっているんだしさ。それに先生だってまた個性じゃない♪ 個性あって楽しいと思う!」
 雲ひとつない快晴の笑顔で言う友華。
 友華は常にどんな講義や、どんな相手からの話も一旦、まんべんなく浄化させてしまう。
 自分に対する悪口でさえも浄化してしまう。
 澱んだ水が気づくと透明な水になるように。
「ねぇ、そういえば聞いたぁ~? 去年あたしたちの担当していた基礎フランス語の○○先生がさぁ――」と、急に友華は最新のゴシップ情報をわたしに提供してくれる。
 それは大概、本来のわたしにとっては特別価値ある情報ではない。
 誰が何をして、どの先生がどうなったのか、それが、わたしと深く関わりのある人物ならまだしも、あまり深く話をしたこともなければ、さほど接点がないと、「へぇそうなんだ」という、上でもなければ下でもない、
フラットな感情で返してしまう。
 でも、友華はそんなゴシップ情報ですら、一度綺麗にさせ、それから情報と言葉を、その季節の色にコーディネートをする。
 友華は情報と言葉のコーディネーターなのだ。
 どんなに見窄らしい情報であれ、どんなに澱んた言葉であれ、
友華は決して厭な顔をせず、一粒たりとも余すことなく、それらを季節の色にコーディネートしてしまう。
 夏が本格化すれば、友華の中で、
 それらは夏の太陽に反射する海のように煌く。
 わたしはそのコーディネートされた情報と言葉を聞くと、なんだかまるで買ったばかりの新物の夏服を着て、大切な人たちの前で披露するように、自然と微笑みが溢れてくるのだ。
 大学を卒業した今でも、わたしは友華とは友達だけど、当然友華の全ては知らない。
 けど、友華と出会って仲良くなった時から、友華には、不安や不満といった〈不〉という負担を抱えてないように思えた。
 もしかしたら抱えているのかもしれないが、それはわたしの時々抱える〈不〉でもなければ、〈負〉でもない。それどころか、友華自身の中で、〈不〉と〈負〉はすぐに浄化され、
やがて友華自身には気がつかないコーディネートを無意識にしてしまう――という特性があるということがわかった――ような気がする。
 だから、わたしの不安や不満は、友華にはわかりっこないのだ。
 それがわたしの友達――友達における友華のメリットでもあり、
デメリットでもあった。
 そして、そんなメリットとデメリットが均等に保たれてる友華だからこそ、わたしは大学を卒業した今でも凄く仲の良い友達でいられるのだった。

 日本民俗学概論では、部屋全体が白くて、横幅の広い中教室で、
先生が熱弁でユーモアを交えて講義をするため、わたしは、この科目が面白かった思い出がある。
 講義内容は主に、宗教観による、〈あの世〉の世界についてであったり、極楽と地獄についてだったり、天国と極楽の違いについてであったり、
妖怪の歴史についてだったり、近代から現代における怪異の謎についてだったり、また怪異と人との関係性などを学んだ。
 そしてこの日、講義終了前に先生がマイクで、
「前期が終了する夏休み前までに自分の身近にある〈不思議な場所〉を、レポート三枚分くらいにまとめて提出するように! ちなみに枚数は多くなっても構わんぞ~!」
 といった。周りの学生らは「ええ~!」とか「そんなのねぇよ~」とか「まじだりぃ」といった、不安と不満と、
ため息混じりの言葉が渦を巻いていた。
「へぇ~! なんかおもしろそう!」と友華はやる気満々で、目を宝石のように煌めかせた。
「友華はそうかもしれないけど、急に“不思議な場所”って言われても、検討もつかないものよ……」
 わたしも周りの学生らと同様、不安と不満が混ざり合い、心でため息を吐いた。
〈不思議〉なんていう言葉は、矢印も目印も何一つない茫洋とした砂漠で、水の楽園を求めるようで、
果てしない漠然とした〈謎〉がわたしをうんざりさせた。
「じゃあじゃあ作ってみればどうかなぁ~?」
 と、急に友華が前のめりになって提案した。
「……作るって……何を……?」
「もぉ~、決まってるじゃーん! コトバは想像して書くの得意じゃない?」
「……いや、それ反則だし、普通にバレるでしょ」
「コトバならいけそうじゃない? だってコトバは高校の時、文芸部のキャプテンで若きエースだったんでしょ? キャプテンにしてエース! なんかかっこいい!」
「元でしょ。それにわたしはただの元部長で、文芸部っていってもわたしが部長をする頃には、もうわたしを含めてたったの三人だったんだから」
「あれれ~そうだったっけ? 文芸部の高校文芸コンクールで総合優勝して、全国制覇したんじゃなかったっけ? コトバを慕う後輩たちからは、『先輩なら三島賞も太宰賞も更には芥川賞の受賞だって夢じゃないですよぉ~』な~んて言われちゃったりしててぇ――」
「こら! 意味わからない勝手な捏造をしないの! それに全国制覇をするよりも、どうせ制覇をするなら、わたしは地球制覇を目指したいくらいよ!」
「そうだったんだぁ~! あ、そういえば駅前に新しいスイーツ店が出来てさぁ――」
「…………」
 わたしのさり気なく生み出せた、貴重なジョークを――。
 友華は水道の蛇口をひねるような気軽さで、洗い流してしまった。
 民俗学の先生は、意味ありげな笑顔を浮かべ、
「実をいうと不思議っていうのは、そもそもないんだ。だけど、我々人間は普段の日常から見えないものや、見れないものを、あるきっかけで見てしまうと、極端に感動してしまう。日常の世界には非日常だって常に転がっているんだ。つまり、人々が言う一般論での“不思議”と思える場所を見つけ出し、レポートに書いて来て欲しい。難しい問題かもしれないが、難しく考えすぎないように見つけてくれたまえ」
 と補足説明をした。
 だが、それは余計わたしの心に「?」が、アメーバのように繁殖するだけだった。

 雄大な空が、いよいよ黄金色に変化し、光輝く夕暮れどき――。
 わたしと友華は互いに、住居という一日のゴール地点に向かって、
一緒に帰っていた。
 友華と一緒に帰るとき、最初は呼吸をするような流れで、世間話をし、
世間話という吐き出される言葉と同様に、わたしと友華もキャンパスの正門を抜け、見ているようで実は見ていない、街路樹を抜ける。お互い、言葉数が少なくなる頃には、静けさに満ちた――だだっ広い河川の土手にたどり着いていた。この日もわたしと友華は、わたしたちだけにしかない沈黙を、
大事に抱え、温めながら、土手を歩いていた。
 土手から見える河川敷では、小学校低学年のワンピース姿の少女と犬が、黄金色の光に包まれながら遊んでいた。その様子が、愛おしいほど無邪気で、少女と犬を包む光さえも大事な家族のような気さえした。わたしたちが歩く土手の方まで、微かに聴こえる少女の笑い声と、犬のワンワン、という鳴き声が、暖かな静けさを強調し、静けさそのものが風と共に唄っているようで、わたしの耳の奥は始終、とても心地が良かった。
 河川敷にあるベンチでは、若いカップルが無言で黄金色の空を眺め、
互いの絆を赤で繋いでいていた。
 わたしと友華が、河川の土手を歩く頃には、よくお互い、沈黙状態になってしまう。
 が、それは、決して暗雲が立ち込める不快な沈黙ではなく、逆に温もりに満ちてい、お互いの足音が沈黙に対する敬意を払ってさえいた。
そんな中で、わたしの歩くスニーカーの音と、友華の歩くパンプスの音は、リズミカルに共鳴し合い、夕暮れの光と静けさとともに、互いの友情の距離を繋いでいた。
 やがて、沈黙を愛情ですっかり温めた友華は、言葉の蓋を滑らかに開け、
「今日は、空が綺麗だね~!」
 そのありきたりな一言には、どこか哀愁の色も混じっていた。
「う、うん……」
「でもね、今日の空はもう見れないんだよ」
「???」
 友華の一言は、あまりにも自然な会話――というより、自然と一体化になりすぎてい、わたしは施錠された理解の扉を、すぐに開けることが出来なかった。理解の扉を開ける鍵を探そうと、わたしは、
「明日だって晴れていれば見れるじゃない?」と、訊いてみた。
「明日は明日っていうその日だけの空だよ~。今日はもう過去の空になっちゃって、心で振り返ることしか出来ないの」
「なんだか難しい話ね」
 理解の扉は更に、強固に施錠されてしまい、鍵を探して開けることを諦めかけていたわたしは、少し投げやりな言い方になっていた。
 そんなわたしの投げやりな言い方でも、友華は厭な顔をせず、
「ううん、難しくはないんだけど、単純にあたしたちが普段見ているようで見ていないだけなんだよ。同じ空も、同じ世界もやってこない。あたしたちは今こうしてそれぞれの帰るべき場所に帰ってるけど、あたしたちは、進むべき未来に向かって歩いてるの」
「つまり、今日という日も、今日という空も、明日が来れば、今日という日は死滅する――ということかしら?」
「ううん。死滅はしないよ。過去になるの。過去として生き続けるの。よって今日という日は明日という日に生まれ変わるの。今日の空と明日の空の違い、それは今、あたしとコトバが見ている空は、今現在の〈あたしたち〉の空だけど、明日という日が始まったら、今見ている、あの綺麗な空は、〈あたしだけ〉の、あるいは、コトバだけ……いや、〈あなただけ〉の空になるんだから」
 空を見ながらそう言う友華は、本当はどこを見ていたのだろう。
 過去の空なのか――今だけの空なのか――これから先々の空なのか。
 その時、頭の中で例のレポート課題が雲のように浮かんできた。
「そ、そういえば、さっきの日本民俗学概論の講義のレポート課題どうするか決めた?」
「ほぇ~? あ~! あれね! うんうん! もう決まったよぉ~」
「え!? うそ! もう決まったの? どこにするの? っていうか、そんな〈不思議〉なところなんてあるの!?」
「あるんだな~これが!」
 ドヤ顔で言う友華がほんのちょっぴり憎らしい。
「どこどこ?」
「えっへへ~! 知りたい~?」
 うんうん、と頷く。
「でも、それはまだ秘密♪ すぐにわかるから大丈夫だよ~♪」
 澄んだ声で言う友華の声は、黄金色の光とともに弾け、光にお化粧された彼女の笑顔は、今日という最後の夕暮れの世界を彩る、一枚の水彩画のようだった。

     ☆     ☆     ☆

 それから翌週の金曜日。
 日本民俗学概論の講義開始前でのこと。
「じゃじゃ~ん♪ レポート終了しました~!」
 喧騒の荒波が押し寄せる中教室で、友華は誇らしげに、完成したレポートを「ほらほら~♪」と、見せてきた。
 友華の両指で持つA4サイズのレポートは、丁寧に調教されたペットのように、彼女にされるがまま、パラペラパラと何かつぶやきながら揺れていた。
 友華の報告に、最初わたしは、どんな反応をし、何から話せば良くて適切か、わたしの感情が言葉たちを必要以上に動揺させてしまった。
「え~! もう出来たの!? 早くない?」
 なんとか、わたしが発したそのセリフは、どこかぎこちなく、あまりに滑稽な気がした。
 けど、友華はそんなこと、塵ほども気にしたりもせず、
「ううん。意外とスラスラと書けちゃったんだぁ! 書いているとなんだか楽しくなっちゃって!」
「へぇ! でも、今回のレポート課題って、3枚ほどじゃなかったかしら? これなんか30枚くらいある気がするんだけど……」
 友華のおかげで、わたしはようやく、己の持つ疑問と言葉を冷静に整理することが出来た。
 出来たのと同時に――。
 およそ3枚くらいで、という課題に対して、30枚書いたという、その数字は、書き過ぎじゃないだろうか、
という〈現実的な疑問〉が〈突っ込み所〉へ矢のように突き刺さった。
「うん! それだけ想い出が色濃く残っていて……いや~」
 頬を染め、照れながら自分の頭をなでる友華。
 プリンターで印字されたレポートのタイトルを見ると、
そこには《夢の世界の崩壊とその終わりについて》と書かれていた。
手書きで書いたタイトルではない分、それはどこか遠い国のおとぎ話の一節のように思えたし、別の角度から見ると、なんだか世紀末芸術絵画の題名のようにも思えた。角度を変える度に、わたしの〈思ったこと〉が蝶蝶のように、縦横無尽に飛び回るのは、友華がタイトルに対して練りこんだ無意識な言葉の魔術のせいなのかもしれない、とも思えてしまった。
「タイトルが……なんか個性的ね……」
 晴れなのか、曇りなのか、雨なのか、判然としない――白濁とした空のような、わたしの曖昧な感想の一言を友華は、
「ありがとう! あたしもタイトルはちょっとだけ考えたんだ~。 でもありままを伝えることが大事だなって思ってそれにしたの~」
 と、わたしの曖昧な空模様の感想を大事に受け止め、
 澄んだ快晴に浄化させる。
「でも、なんで夢の世界の崩壊なの? まして終わりについてだなんて」
「うん! 実はこれを見て欲しいんだぁ!」
 友華はそう言い、自分のバックから、B5サイズほどの封筒を取り出し、
その中から、フイルムを現像したハガキサイズの写真を取り出した。
 分厚くて、40枚以上はあるだろうか――数えていないため、それはわからなかった。
「写真撮ったの?」
「うん! あたし暇なとき写真をよく撮るんだけど、今回のはレポート用なの~♪」
 と言って、友華は写真の束をわたしに渡した。
 正確には何枚あるのかわからないハガキサイズの写真を、
わたしはゆっくり一通り見た。
 友華が撮影した写真の数々は、どうやら、どこかの遊園地のようだった。
 ようだった――というのは、そこに写っている遊園地が全体的に朽ち果てていたからだ。
 しばらくどころか、ここ数年間まったく手入れされていないのではないかと思うほど、乗り物は汚れ、幾何学模様の錆びが目立ち、園内の建物の塗装もとこどころ剥がれてい、余計な草やら、蔦やらが伸び放題で、
同じ国に存在するとは思えない――そんな光景だった。
 まして、それが撮影された写真から見ると、尚更、現実味に欠け、写っている風景そのものが、まるでゆっくりと時間をかけ、丹精を込めて仕上げた創作物のような気がした。
「これって……遊園地かしら?」
「うん♪ 元遊園地って言ったほうが的確かもしれないけど。あたしの想い出の場所なの~♪」
 友華は無垢な少女のように笑った。
「想い出?」
「うん♪ あたしがまだ園児だった頃や小学校、中学校の頃に、お母さんがよく連れて行ってくれたの。この遊園地だけのマスコットキャラもいて、
あたしと同い年くらいの男の子や女の子もいて、お母さんと同い年くらいのお母さんやお父さんもいて、みんな幸せそう……というより、幸せだった。あたしもその幸せの星の一つだった」
「幸せの星?」
「うん! だって、遊園地は夢の世界だから。
 あたしたちはその夢を見ていたの。
 夢を見ているときは、一番しあわせ。
 たとえ、あたしたちはそれぞれ考え方が違っていても、遊園地という夢の世界で戯れているときは、一人一人が幸せの星になれるの」
 そう述懐する友華の表情は、とても同い年とは思えないほど、
幼く純真だった。
 わたしは再び、写真の束を、一枚一枚ゆっくりと、
詩の一行を読むように見た。
 写っている写真の遊園地らしき風景は、
面影があるとしか言いようがなかった。
 メリーゴーランドの馬は泥だらけで、主を失って目を細めてどことなく悲しそうな表情だし、馬車はかつてどんな姿だったのか想像できないほど、
ペンキがボロボロに落ち、枯葉が積もっていた。
 更に、コーヒカップも汚れているうえに、多くの草がカップの周囲を覆い、綺麗にされないまま放置され、ジェットコースターのアトラクションらしきものも、昆虫の死骸のような錆を浮かせて、俯いていた。
 そのジェットコースターのレールは、空爆を受けたかのように暗い茶色に変色し、ぐにゃぐにゃと不気味な形に歪んでいた。
 友華がいうマスコットキャラの小人や妖精の模型たちも、やはりペンキがとこどころ落ちてい、汚れもひどく、かつて可愛かったであろう両目も片方は白く、片方は泥が被り、今にも泣きそうな表情をしていた。
「これは……もう遊園地じゃないってこと? いわゆる廃墟遊園地かしら?」
「うん。厳密にいうと、そうだね。市の財政が悪すぎて取り壊すことすら出来ないの。でも、あたし的には想い出が残っていて嬉しいけどね♪」
「でも、他に誰もいないんでしょ……怖くなかったの?」
「全然怖くないよ? むしろ精霊がいて、楽しいくらいだよ~♪」
「精霊って……まさかお化けのこと?」
「えへへ~、もうコトバは怖がりさんだな~。お化けとか幽霊とかじゃなくて、精霊さん。正確に言うと、想い出の精霊さんなんだよ~♪」
「想い出の……精霊?」
「うん! ここが遊園地だった時、あたしも含めて、みんなの楽しさ嬉しさや喜びの感情が、想い出の精霊さんを生み出すの。
 想い出の精霊さんは、たとえ廃墟になっても、取り壊されないうちは、
そこに居続けるの。
 仮に取り壊されても、次はあたしたちの記憶の世界で生き続けることが出来るんだ~♪」
 そう言う友華の言葉を聞いて、わたしは友華が今は廃墟となった遊園地をどんな顔をして撮影したのか、どんな表情で園内を回ったのかを想像してみた。きっと過去の小さい頃と同じように微笑んでいたのかもしれない。
 友華は世界が崩壊する日が来ても、おそらく笑って最後を迎えるのかもしれない――それが友華というわたしの友達だから。
「へぇ~なんかロマンチックね。友華はいいな~。わたしはどうしようかしら……」
 友華のおかげで、わたしも不思議と思える場所を見つけたい、と思ったとき、先生が教室に入ってきた。すると友華は、
「あ! じゃあちょっと待っててね! 先生に聞いてきてあげるぅ」
「え? あっ、ちょっと待っ……」
 わたしが止める前に、友華はスタスタと教壇へ行ってしまった。
 友華が笑いながら先生に何やら何かを話し、先生も先生で、口元に笑みを浮かべて相槌をうっていた。
 すぐに友華はわたしのところに戻り、親指を立てて、頷く。
 授業開始のチャイムが鳴るのと同時に先生が、
「なんと課題のレポートを終わらせた学生さんがいる。
 まだ不思議な場所という問題に困っていて、先に進めない人もいるそうだ。だが、難しく考える必要はない。普段自分が行かないところを散歩してみるのもいい。もっと面白く言えば、無心で、どこにたどり着くのかわからない散歩をしてみるのもいいな。最終的にどこにたどり着いたのか、それが実は不思議な場所になることだってある。先生はこれをダウジング散歩と呼んでいるがな~! ははははは!」
 と、後ろ髪を掻きながら大声で笑う先生。
 何がそんなにおかしいのだろう。
「さすが、先生!」
 と、感動している友華。何がさすがなのだろう。
 ただ、友華が行ってレポートにまとめた〈廃墟遊園地〉が、わたしの心の急所に雷のような衝撃を与え、はっきりとした輪郭を持った〈好奇心〉が、哺乳類のようにぴょこんと生まれ、それは子犬のように動き周り、わたしの心にこれからもずっと居座るようになるのだった。
 先生のいう〈不思議な場所〉は解決出来そうな気がした。
 先生の豪快な笑い声と、わたしと友華の吐息から漏れる感情と、
教室内の不満混じりの喧騒が、教室のエアコンの風と複雑にもつれ合い、
教室の隙間を抜けて、更にキャンパスの周囲を駆け抜け、やがてそれは茫洋とした海色の夏空へと、勢い良く舞い上がっていった。

     ☆     ☆     ☆

 そんなこんなで、それから翌々日の日曜日の朝10時。
 わたしは黄緑色のトートバッグを持ち、学生マンションを出た。
 行き先も、予定も、何もかも不明だ。目的は日本民俗学概論の課題レポートを書くためだが、それ以外は、わたしの体も心も徹底的な〈不明〉で覆い尽くされていた。
 そして、その〈不明〉がわたしの不思議な場所を見つける手がかりとなる、かもしれないのだった。現在の夏も暑いが、大学時代の当時の夏も、
頗る暑かったことを覚えている。
 トートバッグの中には、筆記用具とメモ帳とハンカチと、冷えたお茶入の水筒だけだった。
 学生マンションを出ると、細い路地で、周りは一軒家だの、こぢんまりとしたアパートだの、目を引く豪邸だの、閑静な住宅ばかりだった。
 わたしが住む学生マンションも、どの住宅も、全てが夏の暑さに溶けそうで、ぐったりとしていた。まだ8月ではないのに、これからどれだけ暑くなり、どれだけの暑さが続くのか、考えただけでもうんざりし、心配になるほどの暑さだった。
 更に追い打ちをかけたのは、蝉の声だった。
 殻を破り、羽化した蝉たちは、残り少ない命の火力を、鳴き声にかえ、夏の世界に放出していた。そして鳴き声は、瞬く間に重なり、やがて声の海を作り、徐々に緩やかな波となってうねっていた。
 そんな鳴き声の海の中で、わたしは――。
 夏の暑さと、蝉の命の熱さで溶け溺れそうだった。
 ただ、唯一の救いは、わたしの〈好奇心〉だった。
 わたしが歩いている最中に見かけた、ヨーロッパの童話に出てきそうな可愛らしい煉瓦造りのパン屋や、北欧のアンティークドールだけを取り扱っているゴシック様式のドールハウスや、モダニズム建築の時計店などを発見すると、それまで大人しく待機していたわたしの〈好奇心〉は、子犬が尻尾を振るようにはしゃぎだし、わたしの元気の強度を勢い良く上げるのだった。
 普段歩かない道や、普段渡らない横断歩道や、どこに辿り着くのかわからない抜け道などを歩いていると、〈知らない世界〉と〈新しい発見〉の二つが融合された、未知なる喜びが、“好奇心”を通じて、わたしの体中に、
清流の如く流れてくるのだった。(散歩の魅力を知ったのもこの頃だ)。

 歩いて二十分くらい経った頃だろうか――。
 気づけば、わたしは鮮やかな、常緑樹の森のアーチともいえる坂道に辿り着いた。
 両側の森は極めて明るく、坂道の先には、綿のような雲が一つ浮かび、青空と仲良く煌めいていた。坂道を登れば、そのまま空の世界へと続いていそうな気がし、わたしは迷わず坂道を登った。
 森のアーチの坂道は真っ直ぐ、どこまでも続き、登っていても切りがないように思えた。
 が、溢れる緑の新鮮な匂いと、静けさと、涼しさが満ちて、いくら登っていても決して辛くはなかった。
 むしろ、この新鮮な気分をもっと抱きしめるように堪能したい、と思ったくらいだった。
 やがて、坂道が平坦になり、常緑樹の森のアーチの坂道を潜り、登り終えると、そこには、色とりどりの花の庭が広がっていた。
 更に、三十メートル先の正面には、西洋に迷い込んだのではないか、と錯覚しそうなほど、古く、風情のある大きな宮殿のような建物が建っていた。
 ――もしかして、ここは異世界か何かかしら?
 そのような考えが、頭の中をよぎったが、
瞬時に、疾風の如く通り過ぎていった。
 何故なら、宮殿のような建物の周りには、見覚えのある花たちが、
わたしに現実世界であるということを、微笑んで語るように告げていたからだった。
 菜の花や、バラや、ハマナスや、ナナカマドや、エゾスカシユリや、スミレや、ライラックや、ラベンダーや、チューリップといった花たちが、父や母に寄り添う健気な娘たちのようで、光の恵みをいっぱい浴びて、
神々しく輝きながら咲いていた。
 わたしは一つの花でも傷つけまい、と気をつけながら、建物に近づいた。
 建物の古い木製の大きな扉の横には、
B4サイズほどの案内板が取り付けられてい、
《物語美術館へようこそ! 入館料は無料! あなたの愛情が全てです!》
 という綺麗な手書き文字で書かれていた。
 ――物語美術館? 生まれて初めて聞く名前だわ……。
 その“物語美術館”という名前のフレーズは、森の奥深くで、魔女が唱える魔法の呪文のようで、とても暗号的かつ神秘的に秘密めいていた。
 そして、そこでわたしの中の〈好奇心〉は、勢い良く尻尾を振り、
『入ってみようよ!』と、わたしの意識の腕をぐいぐいと引っ張るのだった。
 わたしがゆっくりと扉を引くと、扉はギギギギギィィ……っと、形容しがたい動物の悲鳴のような軋む音で、空間を震わせ、周囲に轟かせた。中へ入ると、一言では言い表せない光景が広がっていた。敢えて一言でいうならば、体感出来るモダンアート、といったところだ。
 まず驚愕したのは、館内は屋外かと錯覚しそうなほど明るく、なんと床一面が草になっており、あちらこちらに、見たこともない花々が咲いていた。更に、その花々の周囲を黄色や水色や白色の小さな蝶蝶が自由に飛び回っていた。
 次に驚愕したのは、無限に続いているのではないかと思うほど、
奥深くまで伸びている本棚の数だった。
更に驚愕したのは、天井がとてつもなく高く、
天井のほぼ全面がガラス張りで、海色の夏空が見えた。
 もっと更に驚愕したのは、どのくらい広いのか、計り知れないほど広大な館内を、至るところに不思議な形態をした階段が幾種もあり、階段は館内のあちらこちらでジェットコースターのように、上がったり下がったり曲がったり螺旋状に回ったりしていた。
 この“物語美術館”という建物が、どういう経緯で、どういう構造で、どうやって建築したのか――館内の様子だけでも、〈なぜ〉と〈どうやって〉という〈突っ込み所〉が光の速さで増殖し、何千何万の銀河のように広がるが、その〈突っ込み所〉は、太陽系を超えた遥か先すぎて、理解するための無数の〈矢〉を放っても、追いついて刺さるはずがなかった。
 スペインにあるガウディのサクラダ・ファミリアも凄いが、ここはまた違う――次元の違う意味で凄かった。
 また、人が来そうにない辺鄙な場所だからこそ尚更だった。
 他のラテンアメリカのモデルニスモ建築だって、“物語美術館”のような
構造を見たことがないし、なんといっても、素人のわたしから見ても、
全て無理がありすぎて、現実感が湧かなかった。
 だが、これもまた現実である――ということを告げてくれたのは、館内の涼しさだった。館内は、エアコンといった人工的に作られた涼しさではなく、思わず目をつむって微笑みたくなるような自然的な涼しさだった。
おかげで、爽やかな風がそよぐ避暑地の大草原にいるような気分になれた。
 また、とてつもなく高い、ほぼ全面ガラス張りの天井からは、夏の光が降り注ぎ、じっと見ていると、それは光のはしごのように見え、そこから天使がゆっくりと翼を揺らめかせながら、華麗に微笑んで降りてくるのではないかと思うほどの絶景だった。
 わたしがうっとりと見とれていると、
 ――こんにちは! いらっしゃいませ!
頭の中心で、若い女性の声がはっきりと聞こえた。
 普通なら、驚いて体がビクッと反応してしまうが、わたしは冷静にその声を聞くことが出来た。それは、その女性の声が、まるで生後間もない赤ん坊をあやすように優しい声をしていたからだと思う。
 振り向くと、声の主と思われる若い女性が立っていた。

     ☆     ☆     ☆

 銀色の髪が、癖っ毛一つなく、真っ直ぐ背中まで伸び、降り注ぐ光を浴びて煌めいていた。
 服装は全体的にカジュアルで、上は白の長袖ブラウスに、
下は黒のミディ丈のフレアスカートに黒のストッキング、そして、
赤いリボンの付いた可愛らしい黒のエナメルシューズをはいていた。
 顔立ちも穏やかに端正で、眉毛は緩やかに長く、少し大きめの垂れ目が、愛くるしく、瞳は快晴の朝の湖のように水色で、唇は、潤いのあるパステルピンクが印象的だった。
 乳白色の肌をしたその女性は、両手を前に組み、口元に笑みを浮かべる様が、とても人間離れしてい、おとぎの国から迷い込んだ、魔力で動く人形を間近で見ているような気がした。
「こんにちは! いらっしゃいませ!」
 その女性は、今度ははっきりとそう声に出して繰り返し、
「物語美術館へようこそ! 私は館長の夢白真昼――(ゆめしろ まひる)と申します。以後お見知りおき願いますわ♪」
「……あ、ど、どうも……ご丁寧に……初めまして、わたしは詩色言葉――
(ししき ことのは)といいます。よろしくお願いします……。……」
 わたしも咄嗟に挨拶をしたが、挨拶って、この際必要なものかしら? 
という塵ほどの疑問はあったが、すぐに風で飛んでいった。
「詩色……さま。詩色様ですね。とても可憐で美しい名前ですわ」
「あっ……わたしのことは気軽に言葉って呼んでやってください」
「まあ♪ そうですの。では、言葉様と呼ばせていただきますわ。言葉様……言葉様……♪」
 真昼さんは、ゆっくりと目をつむり、わたしの下の名前を、大事な宝物を胸に抱えるように小声で繰り返した。
 わたしは、照れて血液が熱くなるのを感じ、それを隠すため、
「あ、あの……ここは、この《物語美術館》ってどういう所なんですか?」
 すると、真昼さんは目を輝かせて、
「よく聞いてくださいました! 物語美術館は、〈あらゆる〉世界の物語の、その〈すべて〉を余すことなく、展示してるんですの♪」
「〈あらゆる〉世界の物語の……その〈すべて〉……ですか?」
 わたしは反芻するように尋ねた。
「はい、そうですの。それを〈観せる〉ため、今からご案内いたしますわ♪」
 そう言って、この物語美術館の館長だという真昼さんは、早速、わたしに館内の案内をしてくれた。真昼さんの声は、とても優しく特徴的な声のはずなのに、今振り返ってみても、はっきりとどんな声だったのか、
はっきりと思い出すことが出来ず、とても綺麗な声だなー、というあまりにも漠然としたものだった。
 なぜなら、それは、真昼さんの声が、総体的には、
玉虫色の風のようだったからだと思う。

 わたしと真昼さんは、同じ歩調で、多くの本棚を次々と通り越していったが、本棚の数は、どこまでもどこまでも続き、いくら歩き続けても、おそらく終着点はないのではないかと思えた。
「あの……ここの美術館って、……その……わたしの他に、お客さんとかっているんでしょうか?」 
 そう尋ねたわたしはすぐに、、この質問はさすがに失礼ではないかと思え、焦ったが、真昼さんは厭な顔を一つしないどころか、
頬を少し赤らめて笑い、
「はい♪ ささやかではございますが、ご来館されるお客様がおり嬉しゅう存じますわ♪」
 真昼さんは、“ささやか”という言葉の輪郭を愛撫するように言った。
 たしかに耳をすませてみると、誰かがいるような気配を薄く感じられた。
 館内は、わたしと真昼さんの歩く音と、時々誰かが微笑む微かな声、
そして、誰かが本のページをめくるような音などが、
仲良く愛しく優美に絡み合い、安らかな静寂の寝息を立てていた。
その息遣いを聞いていると――。
わたしまでも、麗らかな夢の庭で優雅にくつろげそうな気がした。
 真昼さんは、あるところで止まった。そこがどこの通路で、何番目の本棚で、どんなジャンルの物語が眠っているのかなど、
まったく検討もつかなかった。
 それでも、真昼さんは、手馴れた動作で、本棚から一冊のA5サイズの本を引き抜き、世界に一つしかない貴重な骨董品を預けるような仕草で、
わたしにそっと渡した。
「手始めに、まずはそちらの物語を体験してみてください♪」
「これは一体……」
 どう見ても、それは本屋というより、図書館ではよく見る古びた辞書のようにずっしりとした本にしか見えなかった。
 が、表紙には海外のどこかの文字でタイトルらしきものが書かれていた。わたしはゆっくりと表紙を開いた。
 すると中から――。
 豪快な音とともに、何十色――いや、何百色もの光が洪水の如く溢れ出し、瞬時にわたしを食べるように包み込んだ。
 わたしの周囲には、何百色もの光が、次から次へと変幻自在に色を変え、打ち上げ花火の中心にいるような気分になれた。
 次第に色とりどりの光は、霧が晴れるかのように止み、わたしの視界に入ってきたのは、中世の東ヨーロッパのような巨大都市のような王国が広がっていた。自然映画の高度なカメラワークを見ているかのようで場面がコロコロと変わっていった。わたしは高台から街並みを見下ろしていたり、街の中心地にいたりした。街並みは、豪華な煉瓦造りとなってい、巨大都市なのに、緑は豊かにあふれ、遠くにはアルプスのような山々が連なっていた。
 だが、何か変ではないか――と思ったのは、街を歩く人が人ではない者もいたということだ。宝石のように綺麗な装飾を身にまとった貴族や、商人や、鎧を装備した兵士や、騎士などがいる他、アークウィザードと呼ばれる魔法使いや、武器を装備し、人間よりとても身長が低いながらも、超人的な力持ちのドワーフと呼ばれる小人や、細長い耳が特徴的で長寿で魔法使いのエルフ族や、人のような顔をしているのに、獣のような耳をした獣人族など、あらゆる種族が生活をしていた。
 わたし自身が、その世界にあたかもいるようで、創られた世界を〈観て〉いる気分になった。そして呼吸の仕方を忘れるほど驚いたのは――。
 巨大都市の上空を、大空を、巨大なドラゴンが豪快に羽を広げて、
飛翔していた。
 ドラゴンは時折、体をくねらせたり、回転をさせたりしながら――。
 空と下界に向かって、壮大な鳴き声を発した。
 鳴き声は、生まれて一度も聞いたことがないようなもので、世界の果までも踏んづけるのではないかと思うくらいずっしりとしてい、空と下界の空間を激震させ、やがて放射状に拡散し、やがて雪のように溶けていった。
 本来ならば、脅威であるはずのドラゴンに対して、物語に登場する王国の国民たちは、皆誰も、ドラゴンを毛嫌いしたり、
恐怖を感じたりはしなかった。
 それどころか――。
 王国の国民たちは、新しい季節の到来を眺めるかのように、
晴れ晴れと至福に満ちた表情をしていた。
「この物語におけるドラゴンは、王国にとって平和の象徴であり、
幸福の象徴であり、そして神様として崇め奉られてますの。
 ですので、ドラゴンは王国で生まれ育った国民たちにとって〈全て〉なんですわ」
 気づいたら、真昼さんが、わたしの真横でわかりやすく説明してくれた。
「全て……ですか?」
「はい♪ 全てですの。もっと言えば、ドラゴンは王国にとっての歴史であり文化であり、そして伝統そのものなんですの。よってドラゴンが絶滅してしまったら、それはイコールで王国の破滅と崩壊への道を辿ることになりますの」
「破滅と……崩壊。それは一体……」
 真昼さんの口から突如、現れた、“破滅”と“崩壊”という言葉が複雑に構成された難解な数式のようで、解くにはどこまでも果てしな過ぎて、〈謎〉の色を発光させて、わたしの周囲を漂った。
 真昼さんは説明を続けてくれた。
「つまり――王国にとってなくてはならないドラゴンが絶滅したら、アークウィザードやエルフやその他――魔法を使用される方々にとって、命の一つともいえる“魔法”そのものが、完全に完璧に〈意味〉をなくしてしまうんですの。そして天候は永遠に荒れ狂い、多くの植物たちは枯れ果て、動物たちや、多くの民は、食糧難に苦しみ、王国は勢いを増して弱体化し、
それを見計って、悪の魔物たちが侵略を目論むのです。そうなれば王国はあっけなく崩れていくのです。結果として王国は〈崩壊国家〉となるんですの。ドラゴンがいなくなるということは、そういうことなんですの……」
 そう言う真昼さんの表情はどこか哀しげで、作り話とは思えないくらい、現実的にありえそうで、またそれはなんだか〈他人事ではない〉ような気がした。
「この物語は……そういう話なんでしょうか?」
「いえいえ~。そういうわけではございませんのよ♪ ドラゴンがいなくなってしまったら、今私が申し上げたことが起きてしまう――というような設定になっておりますの。ちょっと驚かせて申し訳ございませんわ。
ですが、この物語はドラゴンを崇め奉る王国の民衆の日常を描いてますの。ドラゴンがいて、王国の民はそれを大事にしてきたからこそ、平和な日常を守っていける――それを作者の方は伝えたいんですわ♪」
 そう華やかに微笑んで、あたかも、作者本人のように、物語の趣旨を語る真昼さんに、わたしは心の中心から飛び出た〈感服〉の種子が、自分の体内を駆け巡ったのを感じた。
 わたしがゆっくりと本を閉じると、途端に、わたしと真昼さんの立っている場所は、元の物語美術館の本棚の前に戻っていた。
「いかがでしたでしょうか?」
「凄い! 凄いです! 驚きと感動の一言じゃ足りないくらいです!」
 わたしの興奮の温度は極度に上がりすぎて、意識で温度を下げようにも、すぐには下がらない状態になっていた。
「気に入っていただき、何よりですわ♪」
「あ、あの! 他にはどんな物語があるんですか?」
「どんな物語でも例外なく展示されておりますわ♪」
 真昼さんが、物語を“展示”と表現することに、採れたての熟した果実のように新鮮な感じがした。
「でも、物語って一言で言っても膨大な数ですよね? 展示されていない物語は一つとしてない、ということなんですか? さすがに展示されていない物語だってありますよね……?」
「いえいえ~、ありと〈あらゆる〉世界の〈全て〉の物語を例外なく展示していますの♪ そうですわねぇ……」
 と、ここで真昼さんは少し息を吸い込み、
「そう……例えば、アンデルセンも、エンデも、ヤンソンも、チェーホフも、ヘッセも、ケストナーも、エリナー・ファージョンも、サマセット・モームも、ジョイスも、プルーストも、コクトーも、コレットも、
シュペルヴィエルも、ナタリー・サロートも、クロード・シモンも、ウリポも、ミシェル・ビュトールも、ボンテンペルリも、ブッツァーティも、
ピランデッロも、ガルシア・マルケスも、オラシオ・キローガも、
コルタサルも、ロレンスも、ブローディガンも、サリンジャーも、
ヘミングウェイも、フォークナーも、それから、
樋口一葉も、泉鏡花も、谷崎潤一郎も、内田百間も、夢野久作も、太宰治も、宮沢賢治も、それからそれから――」
「あ! わ、わかりました!」
 真昼さんの〈例えば〉から始まる、作家たちの名前は、噴水となって勢い良く溢れ出し、わたしの言葉でブレーキをかけなければ、永遠に止まらないのではないかと思った。
「とにかく全部、全て展示していますのよ♪」
「その中で、真昼さんが、この時季にオススメな物語って、
何かありますか?」
「この時季にオススメ……でございますか……」
 とても簡単なわたしの質問は、しかし、真昼さんにとっては簡単ではなく、逆に――。
 彼女の中で、出口の見えない「?」の迷路を創り出してしまった。
「そうですわねぇ……そうですわねぇ……あっ! もしかしたら、
あの〈お方〉ならご存知かもしれませんわ!」
「あのお方?」
「はい。 あのお方なら、言葉様に最もオススメの物語を紹介してくれるはずですわ♪ 今からご案内いたしますわ!」
 真昼さんの言う〈あのお方〉という言葉が、魔法の詠唱となって、
彼女自身の「?」の迷路に、抜け道の光を流星の速さで生み出してしまった。そして真昼さんとわたしは、〈あのお方〉という光に向かって、
導かれるように、次々と通路を進んだり、曲がったり、
本棚の抜け道を潜ったりを繰り返し――。
 ようやく、テーブルや椅子やソファーがいっぱいあるオープンスペースに辿り着いた。
 広々としたオープンスペースの六人は座れそうなソファーに、
一人の男性が座って本を開き熱心に本を〈読んで〉いた。
 真昼さんは、その男性をまるで創作の展示物を紹介するように、
片手を向けて、
「こちらの方ですわ♪」
 と、丁寧に紹介してくれた。
「今、本を熱心に〈読まれ〉ている方ですか?」
「いいえ」と、真昼さんは、笑みを浮かべてゆっくりと首を横に振り、
「彼は“本”を〈読んで〉いるのではなく、物語を〈観て〉いるんですの♪」
 と、真昼さんはわたしの言葉をベールで包み込むように優しく訂正した。
 真昼さん曰く、物語を〈観て〉いる男性は、毎日、物語美術館に来館する常連客らしい。物語を〈観て〉いる、という表現だが、一般的に、
それは本を読んでいる――読書をしている光景そのものだった。
 それにしても、その男性は、とても華奢な体格だが、
全体的に涼しげで気品に満ちあふれ、
服装は白のVネックカットソーに、ネイビージャケットを着込み、水色のチノパンに、白いスニーカーをはいていた。髪型も夏に合ったクールショートで、肌は館内から注がれる光の加減で、透明感のある黄色といった感じだった。読書をしているような姿勢だから、表情・顔立ちまではわからないが、わたしから見た第一印象は、一人の男性という〈概念〉ではなく、
物語美術館の一部として溶け込まれた、一枚の印象派な肖像画そのもののように思えた。
 ほぼ全面ガラス張りの高い天井から降り注ぐ光が、彼の髪から服装から、微かに動く仕草の一つ一つを、繊細なスケッチをするかの如く、
色彩を豊かに演出した。
 気づけば、わたしは一枚の絵画というより、一つの光に吸い込まれるように、彼を見ていた。その時――。
 わたしの心の花壇に〈何か〉が芽生えたのがわかった。
 が、〈何が〉芽生えたのかは、この瞬間は、まだわからなかった。

「トモヒト様」
 真昼さんの澄んだ声は、トモヒトという男性の心に直接、
一筋道を作っていた。
 彼女の相手を呼ぶ声には、〈愛情〉と〈愛想〉の二つの〈愛〉が、弧を描き混じり合っていた。
 トモヒトと呼ばれる男性は、真昼さんの声に気づいたのか、
ゆっくりと顔を上げた。
 夢の海辺から戻ってきたばかりのようで、表情は少し虚ろだったが、
顔立ちは全体的にしなやかで、男らしい――というよりも、トゲや泥が一つもない純真なしとやかさが感じられ、更に、彼の表情からは、どこか知的な印象さえあった。
 トモヒトと呼ばれる男性は、わたしを見、それから真昼さんを見てから、現状を把握したのか、
「あぁ……真昼さんじゃないですか。どうしたんですか?」
「トモヒト様。ごきげんよう♪ 随分と熱心に物語を〈観て〉いらしたのですね」
「はい。夢中になると世界から抜け出せなくなって。
ところでそちらの方は?」
 そこで、トモヒトと呼ばれる男性が、わたしの方に再度、顔を向けた。
 彼と目を合わせた途端――わたしはわたしの感情が体を揺さぶっていることに気づく。
 ドクンドクンドクン…………と、心臓の鼓動がはっきりと聴こえる。
 慎ましい静寂の中でわたしの心臓の鼓動も周囲にこだましているようで、それも恥ずかしく思えてしまった。
 二人はわたしの心臓の鼓動音に気づいているのか、気づいていないのか、わからないが、
「こちらは、本日新しく来られたお客様ですの♪」
 と、真昼さんが“お客様”の部分を慈しむように発音し、
わたしを紹介してくれた。
 男性はわたしに微笑むと、ゆっくりと立ち上がり、
「そうでしたか。初めまして。ボクは詠語知人――と書いて、
(よみがたり ともひと)といいます。よろしくお願いします」
 そう言って、知人さんは手を差し出した。わたしも慌てて、
「あ、は、はい。わたしは詩色言葉――と書いて、(ししき ことのは)といいます。こちらこそよろしくお願いします」
 わたしは知人さんと握手をしようと、彼の手を握った瞬間、不思議な感動の小波が手から体全体、そしてわたしの魂の奥深いところまで、
余すことなく押し寄せてきたのがわかった。
 それは――。
 それは、知人さんの手が男性特有の手ざわりではなく、かといえば女性の手ざわりでもない。
 無垢な妖精たちが集まる森で、優しい木漏れ日を浴びて煌く湖の表面を、触れるような、そんな感触だったからだと思う。この手を離したくない――ずっと握手をしていたい、あるいは手をつないでいたい、それほど知人さんの手は優美に涼やかで心地良かった。
「“ことのは”さん、っていうんですか。素敵なお名前ですね」
 知人さんの笑顔と言葉は、彼自身の声の水に混ざり、わたしの心の花壇に芽生えた〈何か〉に直接降り注いだ。わたしは心の花壇に芽生えた〈何か〉が、緩やかな速さで蕾へと成長していくのをはっきりと感じた。
 お世辞でも、偽りでもない、知人さんの言葉は素直に嬉しくて、その分、余計にわたしの心臓の鼓動音は慌ただしく、しばらく感情の交響曲は止まなかった。

 "To Be Continued!!" 

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 【館長より】

 この度は、物語美術館にご来館いただき、誠に感謝致しますわ♪
 当館は、いかがでしたでしょうか? 
 ご来館いただいた、皆様からの感想をいつでもお待ちしておりますわ♪
 後編の物語美術館も、是非、ご来館くださいませ!
 素敵なお食事やお菓子もご用意いたしましょう。
 明日も、これからも皆様にとって善き一日になりますように。
 本日〈前編〉はこれにて閉館です。またのお越しをお待ちしております♪ 

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夏の思い出

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