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DO YOU REMEMBER LOVE?


「人間ぎらい」という劇がある。喜劇である。

もう少し言おう。古来演劇は神事であった。やがて神々、神代の英雄の伝説と運命を取り扱った「悲劇」が幕を上げる。「アガメムノン」「エレクトラ」「オイディプス王」「メデイア」。神の仮面を被り神を演じ神に捧げられるギリシア悲劇。肝心なのは演じ手も観客たちもその結末を知っていたことだ――”それ”が終わっていなければそもそも人の時代は来ていないのだから――。故に悲劇の悲劇たる由縁は単に「悲しい話」であるところにはなく、それがただ誰もが知っている神代の、英雄の物語であるところにある。ではそれに対照する「喜劇」は誰の話なのか。人間の物語である。
より言うなれば、我々の物語である。

劇作家にして舞台役者、劇団長モリエール。本名ジャン・バティスト・ポクランは裕福な商家の生まれでありながら演劇の道を志し――当時、役者になるということはカトリックからの破門と市民権剥奪を意味していた――、自らの劇団を結成する。苦節の末彼らは国王ルイ14世の庇護を得て、パレ・ロワイヤルを拠点としてパリ民衆・王侯貴族の両面から絶大な人気を獲得し、同時に莫大な敵対者を作っていった。現代まで続くコメディ・フランセーズの前身となるモリエール劇団は特に座長モリエールの脚本による喜劇を得意とし、フランス古典喜劇を確立する立役者となっていった。
そんなモリエールの喜劇において最高の完成度を誇ると評されている作品が「人間ぎらい:あるいは怒りっぽい恋人」(原題「Le Misanthrope ou l'Atrabilaire amoureux」)である。初演1666年6月4日のことであった。

主人公アルセストは開幕からいきなり何やら怒っている。友人フィラントに語るには、彼の「礼儀正しい」態度について憤慨しているのである。このアルセストという男は、凡そ人間同士の交際において、その交流を円滑にするために振舞われる形式的な敬愛の情、つまり「社交」というものについて激怒している。いやむしろ心の底から憎悪すらしている。口先の姦計を、心にもない阿諛追従を、それに組する「人間」すべてを。

どんな場合にも、僕等の心の奥底を僕等の言葉にあらわしたいのだ。僕等の心がそのまま、僕等の言葉でありたいのだ。僕等の感情を口先ばかりの挨拶でおおいたくはないのだ。(アルセスト)

この性格のためにアルセストは必要以上に敵を作り、周囲に嘲笑されることもむしろ願ったりとし、あまつさえ彼の抱えている訴訟沙汰でも裁判官への根回しをせず、あえて敗訴することで自らを人間不実の碑とすると言って憚らない。

僕の見るところでは、君はどうやら、人間というものに引導を渡してしまっている。(フィラント)

ところが何を血迷ったか、このアルセストの恋の相手というのが、こともあろうに社交界の花と輝くセリメーヌ嬢。若く美しいセリメーヌは求婚者数多、その全員に愛想よく振舞い、ちやほやされ、その場にいない人間の悪口を言って大いに盛り上がるという、まさにアルセストの憎悪して止まない「社交的」人物なのである。このような悪徳人間を何故アルセストは思慕するのか。アルセストと言えども「恋は盲目」なのか? 否、アルセストはセリメーヌの振る舞いを面と向かって猛烈に非難し、そのうえで彼女の心を求めているのである。なんとも難儀な男。

ほんとにね、あなたのなさり方ったら、まったく新しいわ。喧嘩をするために恋をなさるんですからね。あなたの真剣なお心がありありと見えるのは、怒ってものをおっしゃる時だけね。(セリメーヌ)

他の求婚者、クリタンドルとアカストも訪れ、セリメーヌの立て板に水とばかり友達の悪口トークで盛り上がっていると、セリメーヌの友人アルシノエがやってきて、セリメーヌについての社交的評判について「ご忠告」していく。要するに「誰々さんがあなたの悪口言ってたよ!」というあれだが、セリメーヌはアルノシエの口上をそっくり真似てボロクソに言い返す。

なぜそうお腹立ちになって、こうへんに喧嘩をお吹きかけになるのか、わたくしには、ちょいとこうわけがわかりませんわ。(アルシノエ)
わたしだっても、どうしたわけであなたが、所きらわずわたしのことを味噌糞におっしゃるのか、ちょいとこうわけがわかりませんわ。(セリメーヌ)

……この喧嘩腰と皮肉屋の性分は生来のものだろうな。ともあれ、これに憤慨したアルシノエは、アルセストに一枚の手紙を見せる。それはセリメーヌが求婚者の一人オロントに宛てたものだった。オロントに向けられた熱情たっぷりの言葉を目にしたアルセストは怒り狂い、セリメーヌに詰め寄るが、セリメーヌは恥じ入るどころか一歩も退かず反駁する始末。

こんなことになるのだったら、どなたかほかのかたを想って、あなたが本気になって恨みごとをおっしゃる種子を作るんでしたわね。(セリメーヌ)

そこへアルセストの家から使いの者がやってくる。彼はお望み通り、裁判に負けたのである。ついに人間社会と決別し、隠遁の決意を固めたアルセストは、最後にセリメーヌへの恋心に決着をつけようとする。折しも居合わせたオロントと一緒になってセリメーヌに詰め寄り、一体本心では誰を想っているのか、はっきり言質を取ろうとする。と、そこへアルノシエが、クリタンドルとアカストを引き連れてやってきた。アルノシエが彼らに差し渡したセリメーヌの手紙には例によって、それぞれの相手への甘言と、それ以外の者をけちょんけちょんに貶す言葉が、ご丁寧にもそれぞれ人数分記されていたわけである。かくして全ては暴き出され、セリメーヌは社交界での地位も信用も、そして求婚者たちの心も失うこととなった――一人を除いて。

僕の弱さがよくおわかりになったことでしょう。しかし、じつをいうと、僕の弱さはまだこれだけじゃない。見ていらっしゃい。僕は僕の弱さを、どん詰まりまで押していこうとしているんですからね。人間を賢いなどというのはまちがいだ、どんな人間の心にも、きっと人間としての弱さがあることを、お見せしようとしているんですからね。(アルセスト)

アルセストはセリメーヌを許すと言った。ただし、そのためには条件が一つ。彼とともに一切の人間から離れ、今すぐに厭世の旅に出ること。そしてセリメーヌにはこの条件をのむことが、できなかった。
アルセストは親友フィラントと、セリメーヌの従妹エリアントに別れを告げ、一人旅立つ。

とまあ、これが「人間ぎらい」の顛末である。そして最初に述べた通りこの劇は「喜劇」である。正義と名誉を潔癖なまでに重んじた男が、世間に裏切られ、恋に裏切られ、一人旅立つという「喜劇」である。
もしかしたら諸君らはこれに異論あるかもしれん。あんまりにもアルセストが可哀想じゃないかと。あんまりにも救いがないんじゃないかと。実際、「人間ぎらい」は発表当初から現代にいたるまで、主に教養人の間で高く評価されつつも、その分類については幾度となく異議申し立てられてきた。ある人はこれを悲劇だと言った。ある人はこれを悲劇並みに深い喜劇だと言った。ある人はこれを教訓話ととらえ、またある人はこれを「美徳」そのものを嘲笑する話だと言った、等々。しかし最初に述べた通り、悲劇は単に悲しい話に非ず、喜劇もまた単に愉快な話に非ず。これは人間の――ありふれた、私たちそのものの――話であり、ゆえに喜劇である。人間というものが、たとえその末路に痛切な後味を残すものだとしても――そこに可笑しみが同居してあったって、悪いことはないのだろう。
それに、これはご留意いただきたいのだが、ここで述べたのはかいつまんだあらすじに過ぎないということだ。是非ともこんなダイジェストよりも、全体を読んでいただきたい! 本当なら劇で観られたらなおいいが、中々劇というものは気軽に見る手段がないからな……。ともかく全文を――オロントに詩の寸評を請われたアルセストが散々言葉を選んだ末に完膚なきまでにボロカスにけなすのを、セリメーヌの留まるところを知らない悪口雑言ボキャブラリーを、二人の喧々諤々の言い合いを、その軽妙で洒脱な言い回しを――読んでみてほしい。決して「笑えない話」なんかじゃない、そんな重苦しいだけの話じゃないのだから。

ともあれ、人間ぎらいのアルセスト青年が世間を見限り、一人都落ちをするというのがこの話のオチなのだが、もう一人、セリメーヌのほうもこれは身の破滅であることは間違いない。この性悪の、裏切りの、悪徳人物はもはや社交界の爪弾き者として生きてゆくほかないであろう。このビターな物語の中であっても、やはり悪は滅びるのだ! ところで一つお尋ねしたいことがあるのだが……セリメーヌの悪徳とは一体何であろうか? 言い方を変えよう。セリメーヌは如何なる「嘘」をついたのか?
ちょいと巻き戻して、彼女の言動を見てみよう。セリメーヌの破滅を決定づけた、誰彼構わず愛の言葉を囁き、その一方で毒舌の限りを尽くした手紙。そんな……セリメーヌさんが裏では人の悪口を言うような卑劣な人間だったなんて……失望しました。ファン辞めます。さて、もう少し巻き戻してみよう。セリメーヌを求婚者たちが囲んで……他人の悪口で大いに盛り上がっているな! みんなして笑っているな!「他人の悪口を得意になって喋る」セリメーヌを、みんなでちやほやしていたな! そうだ、みんな笑っている。クリタンドルも、アカストも、そして……私たちも! そうだ。劇を観ている、本を読んでいる我々にとっても、そこは確かに「笑える場面」なのだ。何故なら……他人の悪口は面白いから! 槍玉に挙げられた人間たちを、セリメーヌが鮮やかな毒舌でもってズバズバ斬っていくのはたいへん見事で、痛快で、面白おかしく、ついつい笑ってしまう場面なのだ。そして――私たちは、セリメーヌが裏では平気で人を侮辱する人間だという事は、当然ご存じであったろうな? もちろん他人の悪口は面白いが、その矛先が自分に向くのは面白くない。それは誰だってそうだ。当たり前の感情だ。しかし……その性根に今更眉をひそめて後ろ指を指す権利が、いったい誰にあるのだろう――と、ここでただ一人、セリメーヌのそういった性根を、一貫して面前と非難し続けていた男がいたような。
そして彼女が誰彼構わずいい顔をするというのも……そもそも彼女は誰にでも愛想が良かった! だからこそ社交界の中心人物になったのであろう! まさにそれこそが――誰にでも愛嬌よくし、慇懃に尽くし、心にもなくたって分け隔てなく友情と敬意と愛を諳んじることが――「社交」と言うのではなかったかな? まさに彼女こそ、模範的「社交」人物だったわけだ。もう一度問おう……悪徳とは何か。その悪徳とは、誰のものか。
全ての虚飾が剥がされたとき、最後に残っていた彼女の姿は、如何なるものだっただろう。

二十歳そこらの者には、恐ろしくてなりませんわ、そんなところ。偉くもない強くもない女ですもの、そんな決心がつきそうにもありませんわ。(セリメーヌ)

汝、偽証する勿れ……。得てして臆病なものほど攻撃的になる。弱さを加害に変えることは罪だ。ただ――凡そ「世間」というものの中で生きていくために、何が求められるのか、そして求められるがままに応えていけば、果たしてどこに行き着くのかということに思いを巡らすと――あるいはこの物語に、misanthropeはもう一人いたのかもしれない。

あなたは結婚をしたところで、僕と抜差しならぬ間柄になれる人じゃありません。(アルセスト)



やめやめ! さっきも言ったろう、これはまじめ腐った教訓話なんかじゃあないんだ。喜劇なんだから――ありのままに泣いたり笑ったり、打ちひしがれたり、恋の熱情に振り回されたり、強さも弱さも持ち合わせた、そんな――人間の話なのだから。

それに、アルセストには時に諫めたり呆れたりしながらも、最後までついてきてくれたフィラントという友がいたし、セリメーヌの従妹エリアントは彼の偏執的なまでの剛直な性格を、むしろ長所として慕ってくれていた。それにセリメーヌだって……彼女の本性を見据えながら、そのうえで愛した男が確かにいたのだ。そう考えると……そんなに悪い話じゃないだろう?

さあ、僕たちはどんなことをしても、アルセストの計画をぶち壊そうじゃありませんか。(フィラント)






え、私?

私は人間のこと、好きですよ?


本文引用は以下より。


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