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476 「伊丹十三賞」受賞記念新井敏記氏 トークイベント

伊丹十三賞 ―→ 第7回受賞記念トークイベント採録。
いつネット上から削除されるかわからないので転載しておきます。

第7回「伊丹十三賞」受賞記念
新井敏記氏 トークイベント(1)
2015年11月10日/伊丹十三記念館 カフェ・タンポポ
登壇者:新井敏記氏 (第7回伊丹十三賞受賞者/編集者、ノンフィクション作家、
     スイッチ・パブリッシング代表)
     松家仁之氏 (聞き手/小説家、編集者)
ご案内:宮本信子館長
【館長挨拶】
こんばんは。
私ね、夢だったんです。ここで、本当にこの限られた空間で「何かできないか」と、ずっと思っていまして。
今回、伊丹十三賞の受賞をなさった方が新井敏記さん。「本」です。編集とか出版とか。十代から雑誌を作ってもう三十何年。素晴らしい『SWITCH』とか、いろんなことをしていらっしゃる方です。
ちょうど「本」ということで、講演していただくなら、大きな広い空間じゃなくて、こういう限られたところで、深いお話・おもしろいお話、そういうお話をぜひ伺いたいなと思って。今日、初めてなんです。記念館で、カフェでするの。
しかもほら、桂の樹がございますね、中庭に。今ちょうどあの葉っぱ、すごくキャラメルの匂いがするんです。「(ガラス越しに)どうぞ皆さん」と言っても……(場内笑)。後ほど、(会場入口を)開けた時に、パッと感じられるかもしれません。素晴らしいキャラメルの匂い、甘い香りがいたします。しかも夕暮れ時で、だんだんライトアップされて……。これが私の夢でしたので、今日は本当に嬉しいです。50名の皆さま、おめでとうございます!ありがとうございます!

(場内拍手)

では、早速新井さんと、それから今日の聞き手は松家仁之さんとおっしゃって、記念館を立ち上げる時に、ものすごくお世話になりました。新潮社『芸術新潮』の編集長をなさって。今、記念館にはなくてはならない本当に信頼する方。松家さん、新井さんとで、「本」についてどんなお話が伺えるのかと思って、私楽しみにしております。では早速お呼び致したいと思います。
新井さん、松家さん、どうぞ!

(場内拍手)

宮本館長降壇
松家どうも皆さんこんばんは、松家仁之と申します。
新井新井と申します。
松家・新井 よろしくお願い致します。
(場内拍手)
松家今日は綿密に打ち合わせをしていないので、対談は成り行きなんですけれども。よろしくお願いします。
新井よろしくお願いします。
松家新井敏記さんは、私よりちょっと先輩の編集者です。「スイッチ・パブリッシング」という出版社を経営していて、今年で設立30周年。その設立30周年の年に伊丹十三賞を受賞することになって、僕自身にとってもじつに嬉しい受賞だったんですけど――(新井さんに向かって)本当におめでとうございます。
新井ありがとうございます。
松家昨日、松山にいらして、じっくり時間をかけて伊丹十三記念館をご覧になったと思うんですが、感想をぜひうかがいたいです。
新井僕は初めてだったんですが、なんともいえない居心地の良さというか。サイズとしてはそんなに大きくないし、決して威圧的でもない。まるで自分の家に帰ってきたような感じだし。ヨーロッパなんかにある路地裏の小さな美術館で、陽だまりの中でずっと過ごすようなイメージを思い浮かべていたんです。テーマ別の展示の仕方がすごくコンパクトで、その分集中力を高めるし、思わず説明の文章をじっくり読んじゃうんですよね。
松家とにかく新井さん、一か所に立ち止まると、ずっとそこから動かないんですよ。ずいぶん時間をかけてご覧になってましたよね。
新井そう。なにか自分自身の過去と対面しているような気さえしました。美術館にはいって、これだけ集中して展示と文字とを追えるのはめったにないです。ほとんどの美術館は飽きちゃうんですよね。1、2時間いると、飽きちゃうし、どっと疲れが出る。でも、この記念館は疲れないんですよ。展示されているひとつひとつのものに、明快なビジョンがあって、見る者の集中力が高まるようになっている。
伊丹さんがイラストレーションを描いている『漫画讀本』の車内吊りポスターも展示されていてびっくりしました。僕が雑誌編集をやるようになった、いちばん古い原点というか。それはこの『漫画讀本』という雑誌で、いろいろ薫陶を受けたんですよね。1954年の創刊。僕も1954年生まれなんですが。
松家(本を持ち上げながら)ちょっと後ろの方には見えにくいかもしれませんが、僕が編集した本(『伊丹十三の本』新潮社、2005年)。売店でも売っていますけど(笑)。
――(同書内の、伊丹十三がデザインした『漫画讀本』の車内吊りポスターの画像が掲載されているページを示しながら)伊丹さんがまだ20代、エッセイストとしてデビューする前に、イラストレーターでありグラフィックデザイナーであった時代の、ごくごく初期の仕事なんですね。『漫画讀本』というのは、1954年に文藝春秋から創刊された雑誌なんです。電車に乗ると天井から吊り下げられているポスターがありますよね、中吊りポスターというんですが、それを任されて描いた。ほとんど伊丹さんのイラストレーションだけで構成されています。『漫画讀本』を少年・新井敏記は見ていたわけですね。


新井中吊りは、いかにも伊丹さんらしい秀逸なイラストレーションで、これは本当にセンスが良くてモダンな感じなんです。今日ここにいらしているみなさんで、『漫画讀本』を読んでいた方っていらっしゃいます?
(会場内にはいらっしゃらない)
――そうですか。こういうアメリカ的な、洒脱な見せ方もするいっぽうで、僕が一番楽しみにしてたのは、中に「ピンナップ」が入っていたんですよ。
松家僕は知らないんですよ、残念ながら(笑)。
新井ピンナップがあって。つまりですね、女性のセミヌードがあったんですよ。
松家当時としてはかなり刺激的なものでした?
新井画期的でしたよ。今はもう無くなってしまったんですが、「日劇ミュージックホール」の、いわゆるストリップをちょっとモダンにしたショーがあって、そのレポートが載っていたりした。僕はそれをひそかに親父の本棚から抜きだしては、近所の仲間たちと見てたんです(笑)。
松家新井さんはまだ小学生ですよね?
新井小学生です。
松家かなり悪い小学生だ(場内笑)。
新井それを見てドキドキするというのが、最初の雑誌体験だったんです。
僕の家は東京で映画館をやっていたんですね。親父がいろんな映画の本や『漫画讀本』みたいな不思議な雑誌をたくさん持っていて、書斎の棚から1冊抜き出して見ては……ということをやってました。だんだんそれを近所の知り合いにも振る舞って(場内笑)。発売日からほどなくすると、近所の悪い先輩たちが「あれを持ってこい」と言ってくる(場内笑)。棚から抜いてはまた戻すというのを繰り返すのが、僕にとって雑誌とのつきあいの第一歩でした。
その中に、ピンナップ風のものもあれば、漫画もあった。「ブロンディ」みたいな漫画もあれば、「意地悪爺さん」もあった。殿山泰司さんや東海林さだおさんのエッセイも最初からあった。そういう本や雑誌が身近にあって、1960年代の、今でも通用するような雑誌編集の手腕を、僕は見ていたんだな、という記憶がありありと甦ったんです。伊丹さんの描いた『漫画讀本』のポスターを見ているうちに、いろんなことがフラッシュバックして、思わずじーっと見て、動けなくなってしまって。自分の過去にタイムスリップするようでした。
常設展示がすごく秀逸だなと思うのは、伊丹さんの仕事や作品の流れと、伊丹さんの人生の流れと、伊丹さんの生きた時代が見えてきて、僕自身の人生の流れにもそれがすーっと入って重なってくるんですよ。だから、ちょっと不思議な時間だった。記念館を一周するのは、さほど時間がかかったわけじゃないのかもしれないんだけど、なんともいえない重層的に迫ってくる印象があって。
松家いや、ご覧になっている時間は長かったですよ、すごく。
新井展示を見ることは本を読むような経験でした、僕にとっては。伊丹さんの持っているセンスの核にあるものを、初めて知ったような気がしました。と同時に、この建物そのものも伊丹さんの世界にふさわしい。センスがぴったり符合するというか。本当にいいなと思いましたね。
僕は伊丹十三賞に選ばれたことをとても感謝しています。こうして記念館に来られたこともほんとうに嬉しかったですね。これまで何度も松山には来ているんですけど、こういう形であらたな刺戟を受けて、「何かまた違うことをやりたいな」と思ったんですよ。そういう意味でも、すごく宝物のような時間でした。

松家僕は中学生の時から伊丹さんの本を繰り返し読んで、本に手の跡が残るくらい、もう何十回と読み続けてきたから、だいたい同世代ぐらいの伊丹ファンが現れても、「こっちが勝つ」(場内笑)と、ふだんは思っているんです。ところが、今回すごくショックなことがあったんです。
伊丹さんの『女たちよ!』の中に、「二日酔の虫」というエッセイがあります。そのエッセイに添えられたイラストレーションの原画も記念館に展示されています。
大酒を飲んでひどい二日酔になった人が、どうにかして頭痛や吐き気をなんとかしたいと思ってるわけです。そうすると、こめかみになにかプチっとデキモノがある。それをつまんでピュッと指で引っぱると、すごく嫌な酒臭い紐のようなもの、「二日酔いの虫」が出てくるんです。引っ張れば引っ張るほどずるずると。それを全部引っ張り出して、桶の清浄な水で綺麗に洗いたい。二日酔いというのはそういうものだと――そういうエッセイがあるんですね。その「二日酔の虫」を、実は伊丹さんは実写の短編映画にもしているんです。それを一回だけテレビで放映したらしい。実は僕には4つ年上の兄貴がいたんですが、兄貴は見てるんですね、その映画を。僕は見ていない……そしたら、僕より4つ年上の新井さんはなんと見ていたんですよ!
新井『11PM(イレブン・ピーエム)』というテレビ番組があったんです、生放送の番組が。大橋巨泉が司会をしていて、具体的なコーナーの名前は忘れましたが、そこに伊丹さんが登場して、せいぜい5分くらいの短編を上映した。「二日酔の虫」というタイトルだったかどうかは記憶にないんです。
場面は自宅の洗面所から始まる。役者は伊丹さん本人。つまり誰かがカメラを回しているわけですね。そして松家さんが言ったような場面が長回しで映されるわけです。
紐みたいなものがどんどんどんどん頭から伸びてくるんですよね。外に引っ張りだすんだけど、収拾がつかないわけです。「伸びる伸びる」みたいなことを言って、今度は伊丹さんが引っ張り出しながら洗面所を出て、外に出て行くんですよ。


松家あ、そうなんですか?
新井そうなんです。外に出て行って、公園らしきところまで歩いて行って、紐を出し切っておしまい、というような(場内笑)。
僕は中学生ぐらいだったと思うんですが、これはなんだ! というショックを受けました。
松家今みたいにYouTubeも無ければ、ビデオも無いわけですから、一回だけ見た記憶がそこまで残っているというのは、かなりのインパクトだったわけですね。
新井上がってないのかな?YouTubeに。
松家もちろん上がってないです。
新井『11PM』なんて、子どもが見ちゃいけない俗悪番組でしたから(場内笑)。たぶん親には気づかれないようにテレビのある居間に行って、音も小さくして、こっそり見ていたんだと思うんです。
松家かなり露出度の高い女性も出てくるし、『漫画讀本』のテレビ版みたいなところありましたよね……そんなものばっかり見ていたんですか(場内笑)?
新井そんなものばっかりって(笑)。いや、だけどそういうものから、ものすごく吸収をしたのは間違いないですね。
松家『漫画讀本』の車内吊りを、「二日酔いの虫」の伊丹十三がやっているというのは、もちろんわかってなかったわけですね。
新井わかってなかった。「二日酔いの虫」に映っている実写の伊丹さんはめちゃくちゃかっこいいんですよ。朝起きて寝ぼけ眼で、「頭が痛い」とか呟きながら、頭のなかから紐みたいなものをどんどんどんどん引っ張りだすというのは、もう完全にアバンギャルド。お酒を飲む年齢になっていたわけじゃないし、実感はもてなかったものの、少年は映像的にたいへんなショックを受けたわけです。うちの母方の実家は、酒屋なんですけどね(場内笑)。
松家あ、そうなんですか。
新井ひらめきをそうやって映像にしてしまう。当時の視聴者に驚きを与える。でも、そういう思いつきでつくるものって、普通だと時間が経てば古くなりますよね。10年も20年ももたない。でも伊丹さんのエッセイも、そういう遊びも古びることがないのはなぜだろうと、記念館を巡りながら考えていたんですよ。本当に自分が好きなことだけをやっている、という頑丈さからくるのか、それとも感覚的に見えるものがじつは本質をついているから古びることがないのか。それはまだわからない。僕にとっては謎なんです。今回記念館に来させていただいて、宿題を与えられたみたいな感じがします。
雑誌って、ややもすると明日にはもう古くなるメディアだと思うんです。それを僕らは、1週間2週間、1ヶ月経っても古びることがないように編集したいと思うんですが、続けていくことでしか雑誌は更新されていかないんですね。一冊出しただけでは新しくはなっていかない。そのことも、考えさせられました。だから僕は雑誌編集者として、伊丹さんの凄みというのはまだわからないのかもしれない。そのことを自分としてはすごく知りたいと思いました。


松家伊丹さんの顔は「十三」あるということで、この記念館の常設展示はできているわけですけど、そのうちの一つに、編集者としての仕事があります。
伊丹さんの編集能力は、たぶん雑誌の編集にとどまらないものだったんだと思います。たとえばテレビ番組をつくること、コマーシャルを作ること、すべてに編集の要素があると思うんですね。映画も、一旦撮った長いフイルムをどう切って編集するかという、最終的な作業があるわけですし。「聞き書き」の天才と自称していて、それもまったくそのとおりなんですが、これも編集能力といっていい。伊丹十三という人の本質には、「いかに物事を編集するか」という特別な能力があったんじゃないか、と思うんです。
今回、新井さんは記念館の展示の、いろんなポイントで長時間立ち止まっていたんですけど、僕の印象でいちばん滞在時間が長かったのは、『mon oncle(モノンクル)』という雑誌の編集長時代の、「これから『mon oncle』という雑誌を作ります」という伊丹さんの案内文の入ったパンフレット、我々の言い方でいうと「媒体資料」の展示のところだった気がします。
雑誌に広告を出してくださる方や、取り扱ってくれる書店に雑誌を知ってもらうための資料。伊丹十三賞の選考委員、イラストレーターの南伸坊さんは、途中から『mon oncle』のスタッフに近い形で参加するんですけど――その南さんが、「こういう雑誌を作りますよと説明する、伊丹さんが作ったパンフレットがあって、それがね、ものすごくよくできていたの。これはもうその雑誌が面白くないはずがない、と思うしかない出来でね」と何年も前におっしゃったことがあるんです。それを僕は残念ながら見ていない。悔しい。見たい見たいと思っていたら、今回それが企画展で展示されていたわけです。新井さんもそこにへばりついて、ずーっと読んでいましたね。
新井驚いたことに、今でもまったく通用するコンセプトなんですよ。
一番僕が印象に残ったのは、「話し言葉で伝える」という姿勢を打ち出していたこと。世の中のあらゆる事象を精神分析的にとりあげる雑誌、それをどう伝えるか。伊丹さんは「話し言葉」のスタイルで通す雑誌にしようということを最初から決めていたんですね。
今では、『POPEYE(ポパイ)』にしても『BRUTUS(ブルータス)』にしても、「話し言葉で伝える」という雑誌が主流になっていると思うんですが、81年当時は、充分に斬新でした。
『mon oncle』のデザイン、レイアウトは、81年当時、創刊号を買ってものすごくショックでした。イラストでも写真でも大胆に大きく使っていたんです。たとえば僕たちが雑誌を開きますよね。その開いた状態を僕らは「見開き」というんですが、その見開きを見た時のモダンな感じ。これは何か違うものだぞという、今まで僕らが見て、馴染んできた文化とは違う、「新しい風が吹いたな」という感じがしたんですよね。
大手の出版社の媒体資料って、どちらかというと営業的なものが優先するんです。広告クライアントの人に、「どういう年齢層がターゲットで、その人たちにはどんな志向があるのか。我々の雑誌はそこに向けてつくっています」と伝える。広告料金はいくらか、創刊号の部数は、のようなことが媒体資料の主な役割なんですよね。そうではなくて、雑誌を創刊する思想をはっきりと伝えるというのは、『mon oncle』以降、ほとんど見たことがない気がします。そもそも『mon oncle』以前にもあったのかどうかわからない。とにかく新鮮だったですね。
松家伊丹さんてどういう人なのかって、未だに私の中ではわからない部分がたくさん残っているんですけど、今の新井さんの話を伺っていて思ったのは、やっぱり伊丹十三という人は、伝えたいことがあるんですよ。もう明らかに。でもその伝えたいことを、「どうやって伝えるか」ということに、同じくらいの熱量で取り組んだ人だったんじゃないかと思うんですね。文字の大きさをどうしたらいいかとか、書体をどうすればいいのかとか、写真をどう見せるかとか。映画も同じだったと思うんですね。あるテーマをもとに映画を作るというとき、それをどんなキャラクターの登場人物がどう演じて、物語をどう構成し、展開してゆくか、という「HOWの部分」へのこだわりが、他の人より何倍も頭を使う人だったという気がするんです。
新井伊丹さんのエッセイを読んでいてもその部分はありますよね。「どういう生き方をするのか」というのがまず前提にあって、だとすればその人は「どうふるまうべきなのか」ということを明快にしている感じがします。
今回、記念館の中を歩いてみて、ひとつひとつそれが紐解かれてゆくような、分け入るような感じがしたんです。その楽しさと、ちょっと怖さもあった。もう一回、僕に対して宿題が課せられたような怖さがありました。「編集者として君はどうなのか」と問われている感じが……伊丹さんの書くものは、絶えず問われる感じがあって。だからヒリヒリするんですよ。本当にヒリヒリするんだけど、それがちょっと嬉しいというような。
松家伊丹さんのデビュー作『ヨーロッパ退屈日記』の衝撃はいろいろあります。書かれてあることが、初めて知るものがほとんどであったということ、それを難しい言葉ではなく、伊丹さんが目の前で語っているような、語り口調が伝わる形で書かれた本だったということ。伊丹さんが登場して以降のエッセイというものを、明らかに変えたんですよね。「話し言葉」という要素は、伊丹さんを考えるうえではとても大きいですね。
新井ですよね。あと、旅の仕方を圧倒的に変えたんじゃないかという感じもするんです。
旅ってもうちょっと、なんだろうな……自分の人生と重ねたり、もっと教育的なものとして働くというか。小田実のアメリカ滞在記、『何でも見てやろう』はその代表になるものかもしれません。安岡章太郎さんの旅もそうですし、ひょっとしたら沢木耕太郎さんの旅もそうだったかもしれない。だけれど、伊丹さんの『ヨーロッパ退屈日記』を読んでいると、日本人でありながらヨーロッパの人と対等な視線である、というのは、それまで無かったものじゃないか。伊丹さんの旅というのは、ほかの誰とも違うんじゃないかと、昨日思ったんです。
松家なるほど。

新井この記念館に来て、あらためて「もったいないことしたなあ」と思ったんです。僕は1990年に伊丹さんにインタビューでお目にかかっているんですよ。ちょうど『あげまん』公開の時で、『SWITCH』で伊丹さんのインタビューをしたんです。その時に、「もっとちゃんと、もっともっと聞くことがあったな」というのがね。昨日の夜、すごく「ああ、もったいないことしたな」という気持ちにおそわれました。
映画公開のときでしたから、まず『あげまん』の話を聞いたんですね。そのあと、伊丹さんが「伊丹万作の『赤西蠣太』をアメリカに持っていきたい」ということを、すごく一生懸命に話してくれていたんです。伊丹さんは結局それを実現させていますね。展示にもありましたけど、アメリカに持って行き、ニュープリントにして、それをレーザーディスクにもした。僕は、その宣言をご本人から直接聞いたのに、「なぜそれをもっと深く追うことをしなかったんだろう」って。一期一会で終わってしまったというのは、もったいないことしたな、というのが、なんかわきあがってきて、すごく後悔しました。
松家1990年なんですね。
新井90年です。その時の伊丹さんの話でもうひとつ印象に残っているのは、メイキングがどれだけ重要か、ということでした。
たぶん伊丹さんの以前には、メイキングというものに重きを置いた人はいなかった。作品を撮りながら別のフイルムを回して、俳優やスタッフがどういうふうに動いているのかを記録した、たぶん最初の人だと思うんですよね。「メイキングというのはどういうものなのか?」という質問をしたら、「自分自身のためだ」とおっしゃったんですよ。今では、メイキングは映画を作る時には当たり前で、これから観る人に、ある種のガイドというか、わかりやすくしたりとか、映画の宣伝みたいなことになっていますけど。伊丹さんはもうちょっと志があって、「俳優にとってこの場面はどういう動きなのか。それとも監督にとってどういうものなのかというのを、もう一回客観的な目で見るためにメイキングというのは重要なんだ」ということを語っていたのがすごく印象的で。それは、ものすごく印象に残っているんです。
そういう大事なことをおっしゃっていたのにも関わらず、その後をさらに追わなかったというのがね。本当は撮影現場に行けばよかったし、見たかったんだけど、それを実行できなかった。あらためて悔やまれましたね。

松家僕も、メイキングと映画を観ただけで、一度も撮影現場を見たことなかったですね。それでも、『お葬式』という映画を撮って伊丹十三が日本映画に入って行った瞬間というのは、やっぱりエポックメイキングな出来事だったと当時も感じました。そのころ日本映画は、洋画の勢いにくらべて、どこかどんよりしていた。日本映画に未来はあるのか、というような雰囲気の時代だったと思うんですよ。
そこで伊丹さんがやったことの凄さと言うのは、自分たちで資金を用意して、脚本・監督・製作、それから「どう宣伝するか」、「どう上映するか」まで、普通は映画会社にすべて託して「後はよろしく」ということだと思うんですけど――そういったすべてを自分が考えて、コントロールするということをやったわけです。
聞きかじりで言えば、それまでの映画の世界というのは、カメラはカメラマンの、照明も照明係の、神聖な領域。カメラアングルを監督がいちいち確認して指示するということも憚られるような、現場のなわばり意識というようなものがあったらしいんですね。
でもそこで伊丹さんは、カメラはいまどういうアングルで、どう撮っているのか、という画面を、誰もが同時に見られるような仕組みを考えて、初めて実行したわけですね。だからたぶん、最初の現場って、結構「え?」と思う人がいっぱいいたんじゃないかと思うんです。伊丹さんはたぶん、現場から理不尽なものを排除したかったんじゃないでしょうか。方法論から変えてしまった。やるんだったら徹底してやる。
エッセイストとしてもそうだったけど、映画監督としても、「自分の気が済むように、すべてのことに関わる」という意味では、(新井さんに向かって)この受賞者の方も(場内笑)。要するに自分で出版社を作っちゃったわけですから(場内笑)。「どう雑誌を作るか」「どう広告を取ってくるか」。ありとあらゆることを自前でやってしまう。書店とも直接やりとりをする人なんですよ。全部やる。
だから、もしよければ話してほしいんですけど……最近一番話題になったのは、新井さんの会社、スイッチ・パブリッシングが村上春樹さんの本を出しましたね。普通は、出版社で作ったものを「取次(とりつぎ)」とよばれる書籍流通の会社に、まず回すんです。トーハンとか日販という取次に回すと、そこが日本全国の書店に「ここには何冊」という、配本パターンにしたがって送られてゆく。そして書店に本が置かれて、売れないものは取次を通してまた出版社に返されます。これを返品といいます。今は出版不況と言われていて、ひどい場合は、たとえば1,000部作ったとしたら、400部くらいは返ってきちゃうんですね。それが今の出版界のシステムなんです。
新井さんは、そういういままでのシステムとはちがう方法で村上さんの本を売ってもらいたいと考えて、取次を通さずに、紀伊國屋書店とダイレクトに提携して、「返品はしないで買い取って下さい」という形でお願いをしたわけです。これが大変な物議を醸して(場内笑)、ニュースになった。たぶん新井さんは、日本の出版界は今のままだとダメじゃないか、と思っているに違いないんですね。
そういうことをやるというのは、やっぱり伊丹さんの精神に通じるところがあるわけです。受賞後にそういうことをなさったので(場内笑)、「何かこれは関係あるんじゃないか」と、つい思いたくなるんですが(場内笑)。そのあたりの話、少ししてもらってもいいですか?
新井(笑)そうですね。


新井どこから話していいかわからないんですが、スイッチ・パブリッシングには『SWITCH』『Coyote』『MONKEY』という雑誌があって、『MONKEY』という文芸誌は翻訳家の柴田元幸さんを中心にやっているんです。その中に村上春樹さんの連載があったわけです。
それは、「職業としての小説家」ということがテーマでした。「自分がなぜ小説家になったのか」「どういうきっかけでなったのか」「どういうふうに書いてきたのか」ということを具体的に、わかりやすく、それこそ話し言葉で、「講演」というスタイルを借りながら、伝えようとした連載なんですね。たしかに伊丹さんの仕事に近いかもしれない。難しいことを難しく言うんじゃなくて、難しいことを平易に伝える。
この連載を読んでいて、すごくいいなと思ったのは、「明日にでも小説家になれる」と思えるんですよ(場内笑)。いや本当に、「誰でも小説家になれるんだ」と思うんです。それを村上さんは伝えてくれたんですよね。読み進めるのがすごく楽しいエッセイだし、物語性にも満ちていて、さすがだなと思う仕事でした。「明日には小説家になれる、でも小説家を続けることは並大抵の努力ではない」ということをきちんと伝えているいわば村上さんの覚悟です。
それを、うちは小さな出版社だけど、本にまとめさせていただけないかと思いまして、お願いしたら、了解された。スイッチ・パブリッシング設立30年で、村上春樹さんの本が出るということは、光栄なことで、これを機に、さっき松家さんが説明してくれた、取次に対して、ちょっと条件をお願いしたんですよね。

一つは、大手の出版社とスイッチみたいな弱小出版社では、たぶん掛率というのが違うんです。たとえば大手は定価の70%ぐらいで取次に納める。僕たちは67%とか、3%ぐらい悪い数字なんです。かつ「歩(ぶ)戻し」を取られるんです。「お前のところはいつ潰れるかわからない(場内笑)。だから、ちょっと補償金みたいなことを出しなさい」みたいなものを取られるんです。小さな出版社はたいていそれを科せられるんですが、それが3~9%くらい取られる。本の単価からすれば印税に相当するくらいなんですよ。ハンディキャップなんです。競馬の場合は優勝したらハンディキャップだけど(場内笑)、僕らは走る前から重荷を背負わされる、そこからスタートするんですよね。これは条件としては大変なことなんですけど、最初は「そうじゃなかったら、君たちの本なんて出してあげなくてもいいもんね」と言われるから、「いやいやそれでお願いします」みたいに頭をさげるしかないんですが、10年も20年も同じ条件でやっていると、やっぱり改善したいじゃないですか。「1%ぐらい減らしてください」とかお願いしても、ダメと言われる。その理由としては、「返本率を少なくしなさい」とか「3年間は70%ぐらい売れる本をずっと作り続けなさい」みたいなことを言ってくる。それは難しい話なんです。

今、出版界全体で平均が57%ぐらいの返本なんですよ。その中で、「スイッチだけ30%の返本率でやれ」ということは難しいことです。70%にするためにどうするかというと、部数を減らすという方法もある。「普通1万部刷るのを7,000部にすればいい」という論理。取次はそういう論理なんですが、「減らせばそれだけ返本が減る」というわけにいかない。部数が減ると、定価もあがる。そして全国津々浦々の中小の書店まではいかなくなる可能性があるんです。全国で6,000店ぐらい書店があるんですが、それが一日一軒ぐらい閉店に追いこまれているのも現状です。町のなかにある小さな書店が、売りたいと思っても、その本が取次から配本されなければ、どんどん売上げは落ちていきます。小さい書店は卸値でも厳しい条件を押しつけられるので、「もう商売をあきらめなさい」と言われているのも同然なんです。
他に問題なのは、たとえばお客さんがその小さな書店に注文しても、取次から届くのに1週間ぐらいかかっちゃうんですよ。そうすると、「ワンクリックすると翌日来る」「プライム会員は発送料無料」みたいになってくると、パソコンを使っている人にとっては、どうしてもAmazonを頼りにするわけです。これもまたリアル書店の危機につながっています。やっぱりどうにかしたい。スイッチ設立30周年の年だし、村上さんの本を機に改善してほしいなと思って取次に交渉に行ったんですよ。
それは結局、かないませんでした。僕は、書店にちゃんと営業するというのは昔から大事なことだと思っていましたから、村上さんの本の説明をしに紀伊國屋書店に行った時に、書店としても生き残りをかけて新しいことを模索する必要があると、あたらしい流通をやってみましょうか、という話になったんです。僕もしばらく考えました。それをやった場合、僕は取次全部を敵に回すことになる。ひどい状態に追いこまれるかもしれない(場内笑)。
でも、どっちかというと火中の栗を拾いにいくタイプなんです、僕は。夜、こっそり『11PM』見るのと同じ感覚かもしれない(場内笑)。紀伊國屋書店さんと直接に組んでやる方法を選択したら、案の定、取次からものすごいプレッシャーを受けました。「紀伊國屋書店が村上春樹の本を買い占める」という誤報まで新聞に流れました。誰かが意図的にそういう情報を流したんじゃないかと思うような取材不足の記事でした。
小さな本屋さんにもちゃんと村上春樹さんの本を置いてほしいんです。だから、紀伊國屋書店にお願いしたのは、小さな個人営業の書店にもちゃんと届けて置いてもらうことを条件にしたんです。それは、紀伊國屋書店としてもやりたいことだった。たとえば、いま取次に頼んだ場合、小さな本屋さんになかなかいかないのは、仮に30冊仕入れたいと申し込んでも、取次が「おたくのところは売れてないから」と、注文にはるかにおよばない冊数しか届けないという実態もあったりするんです。2冊とか3冊とか。
本は再販制度というものがあるので、定価販売が義務づけられていますし、いっぽうで返品が可能、となれば、本が売れる売れないというリスクを誰もとらない、とりたくないシステムになってしまっているんですね。小さな本屋さんにも「10冊売りたかったら10冊入れますよ」というのが本来の商売じゃないですか。それを少しでも解消できないかと思って、あらたな方法を選択したわけです。
成果は具体的に上がってきています。徐々に今、これまでとはちがう風が吹きはじめたと感じます。「天声人語」でも、売りたい本を書店が売ることができるというのは良いことだ、と僕たちの本のことが書かれたりもしたんですね。ようやくこのことに関する報道もミスリードから正常化して静まりつつあります。考えてみればこの30年、「アウェイの風を、どう押し返して、次に繋げるか」というのがずっと僕の変わらぬ課題でしたから。
松家皆さん。今の新井さんの話は、この数か月後に伊丹十三記念館のウェブサイトに活字化されて載ると思うんですけど、だいぶ修正が入ると思います(場内笑)。非常に貴重な、かなりディープな話を聞けたんじゃないかと思います。

新井そうですね(笑)。
僕らがこの件で得たものは、次のステップとして「直販が楽しい」という当たり前の原点に戻ることかもしれません。一番最初に雑誌を作った時って、僕は直販でやっていたんですよね。取次を通さずに、書店と直接やりとりをしていました。この書店で売ってほしいと思ったところへ自分で雑誌を持って行って「置いてください」とお願いしたんです。最初は「そんなもの、置く場所ないよ」と書店のおやじに怒られながら、書棚を整えたり掃除したりして。ちょっとずつスペースをつくって、「売るスペースありました!」と言って(場内笑)。「置いてください」というのをやっていたんですよね。それと同じことなんで、30年経ってようやく最初の一歩に戻ったような感じがして、すごく面白いですよね。
松家新井さんの話を聞いて、僕のなかに妄想が広がったんです。伊丹さんがもし新井さんの話を聞いたら、出版業界、ご自分も著者として多少なりとも知識や経験があるわけじゃないですか。
――「これ、映画にできるかもしれない。『書店員の女』」(場内笑・拍手)。
新井・松家 ねぇ(笑)。
新井作ってほしかったなあ。
松家伊丹さんは、徹底的に取材をするんですよ。
この記念館を作るにあたっていろんなものを見せていただいたんですけど、たとえば『マルサの女』。国税庁に綿密な取材をして、呆れるくらい膨大な量の取材メモが残ってます。映画を撮る段階になると、税金のこと、脱税のことは誰よりも詳しくなっている。徹底した人でした。作ってほしかったですよね(場内笑)。
新井そうすると僕は、主役級になりますよね(場内笑)。
松家(笑)でも伊丹さんの映画だと、殺されちゃったりして(場内笑)。

新井伊丹さんへのインタビューでもうひとつ印象的だったのは、「自分の望むものと人の望むものを『すり合わせること』」とおっしゃっていたことでした。
松家新井さんのインタビューの中で。
新井そう。「すり合わせ」という言葉が、ものすごく印象に残ったんです。単に自分のやりたいことだけをやるんじゃなくて、人の望むことと、自分のつくりたいものの間に接点を見出すことができれば、エンターテイメントの最上のものになると。それを伊丹さんなりの言葉で伝えてくれた。雑誌作りについても言われたような感じがしたんです、その言葉で。
僕なんか、もう本当に身勝手だし。「自分が責任取ればいい」と思って、売れるとか売れないとかあんまり関係なく自分が好きなものだけやるということを、ややもするとやっちゃったりする。それが良いこともあれば、良くない結果も出ちゃったりするんですが、それを「すり合わせる」ということを軸にして、もう少し考えてみてもいいんじゃないかと、その時につよく印象に残って刷り込まれたんです。本当はもっと、そのあたりのことを伊丹さんから学びたかったなと思います。
松家難しいことを難しく語るのって、そんなに難しくないんですよ。難しいことをやさしく語るのは、実はすごく難しい。だから伊丹さんがエッセイに話し言葉を採用したのも、いま新井さんがおっしゃったような「ちゃんと伝えるにはどうしたらいいか」ということを考えた結果だと思うし、伊丹さんの映画というのも、実は難しいテーマをエンターテイメントという形でどう伝えるか。それを実現した人だったんじゃないかな、という気がします。
新井ですよね。その精神を改めて記念館で発見しました。本は読んでいて映画も観ていたんですけど、直接にお目にかかって一度だけですが「言葉をもらった」ことの意味を噛みしめましたね。
……それで、展示室を出た時の、なんとも気持ち良いこと。密度の濃い中を巡って回廊に立った時に、すごく開放された感じがして。ここの場所もすごく好きでした。
松家(客席に向かって)ご存知かもしれませんけど、この記念館を設計したのは、中村好文さんという建築家なんです。
中村さんは、私以上に伊丹十三フリークの人で、たとえば昔、伊丹さんが『ミセス』で連載していたものも、全部綺麗に切ってファイルして持っていたりするんですよ。僕が『伊丹十三の本』を編集する時も、中村さんが『ヨーロッパ退屈日記』の一番最初の、ひとまわり小さいサイズの「ポケット文春」版のものを貸してくださったりしたんです。
そういう、伊丹十三を知りつくした人がこの記念館をつくったので、建築家としてとても喜びがあったと同時に、「伊丹さんがこの記念館を見たらどう思うだろうか」ということが常にあったと思うので、緊張もされたんじゃないでしょうか。その期間はこの記念館に全精力を注いでいるのを脇で見てきていますから。こういう形になってほんとうに良かったなと思うし、新井さんがこんなに気に入ってくださったことも、ほんとうにうれしいですね。
新井お世辞じゃなく、すごく良いなと思った。だから回廊にあるベンチに座って、しばらく桂の樹を見上げてボーッとしていましたね。そのとき、桂の樹からすごく甘い香りが漂ってきたんですよ。
松家宮本さんもおっしゃっていましたけど、桂ってものすごく綺麗な黄色い紅葉なんですね。それが落ちたあたりで、すごくいい匂いがするんですよ。


新井僕は、てっきりこのカフェの匂いで、「パンケーキかなんか焼いているのかな」と思ったの(場内笑)。「パンケーキ食べたい」、「甘いもの食べたい」、と思ったんですけど、宮本さんが「これ桂の匂いですよ」とおっしゃって。「え! そうなんだ」というふうに思ったのも、忘れがたい。いろんなことを発見した旅でしたね。
あと何より今回、感謝しなきゃいけないのは――僕ね、大江さんに伊丹さんのなんたるかを教えていただいたんです。大江健三郎さんに。
松家あ! そうですか。新井さんなりに、伊丹さんのものを見てはきたものの――
新井『11PM』や『漫画讀本』で、「伊丹十三」という存在をはっきりとは知らずに触れていた時代があって、つぎには、『ヨーロッパ退屈日記』とか『女たちよ!』で読んで知っていた時代がある。雑誌編集者としては、『mon oncle』が登場して、どこか「ライバル視」みたいな意識をした時代もある。本当に不遜なんですが、そういうものを見ながら「自分ならどうしてやろうか」みたいなことを野心満々に考えていた。
そうではないかたちで、伊丹十三さんの存在を「伊丹十三」として知らしめてくださったのは、大江健三郎なんですよ。大江さんに『SWITCH』でインタビューさせていただいて、大江さんからいろんな話を聞いた時に、もちろん関係性は知っていたんですが、伊丹さんが大江さんにとってどれほど重要だったのか、ということをあまり知らなかったんです。
大江さんが松山東高校時代に伊丹さんに出会って、たとえば伊丹さんがディレクションして、大江さんがモデルになって、『黒いオルフェ』の「ガラスを割って自分が寝そべった写真」を撮られたこと。たとえばそれはランボーとヴェルレーヌみたいな師弟の関係かもしれないし、もうちょっと友達みたいな関係かもしれないし、わからないんですが、大江さんがその記憶を嬉々として話してくださったことがとても印象的だったんです。そのとき、その足で松山東高校に行って、『掌上(しょうじょう)』という文芸部の雑誌を見せていただいた。あの時は「伊丹十三」という名前じゃなかったのかもしれないけど……
松家池内義弘ですか。
新井そう。あと、ペンネームもありますよね?
松家あ、ペンネームでも書いていますよね。
新井それも見せていただいて。「こういう人です」というのを大江さんから教わったのは、宝物のような時間だったということを思い出しました。今回ここに来ることによって、伊丹さんのこと、大江さんのことを「宿題として持って帰ろう」と思いました。
松家僕の中学時代は、さっき「伊丹十三の本の色が変わるぐらい読んだ」と言いましたけど、小説部門では圧倒的に、大江健三郎さんなんですね。もちろん読んでいれば二人の関係もわかってくる。より一層、ふたりの著作に夢中になっていく。僕も、大江さんと伊丹さんの友人関係がどういうふうに作用したのかって、たぶん一言では言い尽くせないような、非常に複雑な関係だったというふうに思うんですけど。
伊丹十三という人が、「話し言葉」で書くということに徹底してこだわった理由はいろいろあると思うんです。さっき語った理由もあると思うんですけど、一方で大江健三郎という作家は、日本語の「書き言葉」としての可能性を、極限まで追い求めて作り上げた小説家だというふうに思うんですね。もちろん伊丹さんも、大江さんの小説を読んでなんらかの意識をもったと思いますし、大江さんも伊丹十三という存在が常に意識されていたと思うんです。だから二人の関係が、それぞれの世界を強く大きくしていく、「目に見えないエンジン・駆動力」になったのは間違いないんじゃないかなと。
新井ですよね。肩を叩きあうというか、うしろから背中を押されたような形で。
松家お互いにね。


新井そう。それはすごくいいなって思いましたよね。
伊丹さんがなぜ小説を書かなかったのか、大江さんがなぜもっとエッセイを書かなかったのか。お互いの領分という意識が少しはあったのかもしれないなとか、文章をまじまじと見ながら。たとえば伊丹さんの直筆も展示されているじゃないですか。それがなぜかね、大江さんの筆跡に重なってくるんですよね。
松家ちょっと共通するところがありますね。
新井そう。原稿の直し方も似ている。なんともいえない「吹き出し」みたいなものを書き込んで直す感じも同じです。僕は大江さんの生原稿も見ているので、懐かしい感じがして、二人の関係をあらためて意識しましたね。多感な高校生の時に出会えば、互いにものすごく大きな影響を与えあいますよね。違う道を進みながら、互いに意識して。時には離れて、時には再会して、ずっと繋がっているのって、すごくいいなと思いましたよね。
松家大江さんと伊丹さんの共通点をもう一つ思いついたんですけど。ユーモアがあるんですよ。
新井ああ……
松家どこかで、必ず笑わせるところがサッと顔を出すところがあるんです。それが「落ちない」というか、ちゃんと「品」を保ちながら笑わせる。やっぱり人間というものの存在を根源まで考えていった時に、深刻な人間を深刻に描くというだけだと、届く距離が短くなると思うんですね。そこにユーモアというものが入ってくると、もっと深くまで入っていける。
伊丹さんの映画も、どこかで笑えるじゃないですか。笑うと同時に、深刻なテーマにもグッと入っていく。そのバランスの具合も、実は共通しているところがあるんじゃないかなって。今、咄嗟に思ったんです。
新井僕も今それを言われて、「ああ、そうなんだ。“すり寄せる”ということは“伝える”ということなんだ」ということを、松家さんの言葉から思いました。「今日、俺が一番おいしい思いをして帰る感じだな、嬉しいな」って(場内笑)。宿題がいっぱいあるっていいなと思いましたね。
昨日、沢木さんが講演の中で、「生き生きとしている」ということを、ご自分の創作スタイルの中で重ねて言われましたけど……
松家昨日沢木さんの講演会もいらしたという方、どのくらいいらっしゃいます?(手を挙げる)
ちらほらいらっしゃいますね。じゃあその前提で――
新井最後に沢木さんが、「これまでノンフィクションを書くということを主にしていたんだけど、今は小説を書いている」と。なぜ小説を書くのかという疑問の声も沢木さんの耳にはいくつか届いているけど、小説を書くのは「自分が一番生き生きした瞬間に立ち会えるからだ」というようなニュアンスがありました。
その「生き生き」こそ、創作の根源じゃないのかと僕も思いました。雑誌作りにも「生き生き」というのはすごく重要なんです。それは本当に、30年たっても変わらない。ハラハラ、ヒリヒリしていないと、おもしろくない。同じだなと。
伊丹さんも、時には俳優であり、文筆家であり、イラストレーターであり、映画監督だったわけですが、それぞれの時代に、表現者として「生き生き」とやっていたのはまちがいない。これはほんとうに大事なことですね。じゃあ自分はどうなのかということは、また考えないと(笑)。

松家自分で編集をして、社長をやりながら仕事を回していく時って、「今後どうしていくか」は常に考えなきゃいけないこととしてあるじゃないですか。今後どうしていこうかというのは、結構考えますか? 毎日のように。
新井今後というよりは、明日どうするかという(場内笑)。
「生き生き」で言えば、僕、取次にケンカを……売ったわけじゃないんですよ。僕は別に望んでやったわけじゃないけど、呼び出されたんです。「取次を敵に回すんだな」と。その時、僕、生き生きしているんですよね(場内笑)。
あの時、取次のかなり偉い人に呼ばれたんですが、僕ごときに重役が会ってくれるなんてこれまで無かったんですよ。
いつも本の発売日の1週間くらい前に、僕たちは「見本出し」といって、見本を持って取次に行くんです。献上するように「この本をお願いします」と渡す。それで受付け担当の若い人がそれを見て、「いいでしょう」と。たとえば雑誌『SWITCH』でタモリさんの特集号を出すとしたら、過去のデータを調べて、これだけ売れていると。「取次としてはこの部数を預かります」というチェックを受けるんです。そういう制度の中でずーっとやってきたわけですから、僕ごときが重役に会うなんて、ありえなかったわけですね。
それが、今回呼び出されたわけですよ。そして1時間ぐらいずっと怒られっぱなし(場内笑)。そんなときこそ僕はね、なんか生き生きとしてくる瞬間なんです(場内笑)。だって、こんなのめったにない経験じゃないですか(場内笑)。
すごく生き生きとしているんですけど、自分の会社に戻ってくれば、「明日どうするか」は大問題なんですよ(場内笑)。やっぱり、経営者として社員もいるわけですし、社員には家族もいるから。生き生きとした経験をどう明日に繋げるかというのは、ものすごく大事な次のステップなんです。
松家村上さんの本の販売方法についての第一報が載ったのは日本経済新聞でしたね。新井さんはその記事がミスリードだったとご不満でしたが、一か所喜んだ場所があったんですよね。
新井(笑)
松家「スイッチ・パブリッシングという“中堅出版社が”」と(場内笑)。
新井だって、今まで小さな出版社だったのが、格上げされたわけですよ。「中堅」と書かれたら、「へえ! 俺の会社、中堅なんだ」と。何十行ぐらいつづいた嫌な文章の中で、わずか一箇所、「中堅出版社」――この五文字が唯一の救いでした(場内笑)。
松家(笑)でも25人なんですよ、アルバイト入れて。普通の企業の数から考えると、すごく少なく感じられるかもしれませんけど、大手出版社を除けば、2~3人でやっている出版社がいちばん多いんじゃないか。2~3人でやっている出版社は、もちろん書店回りから編集から全部やるわけですけど。それからすると、25人のスイッチ・パブリッシングが「中堅出版社」というのはある意味正しい。それくらいの規模の業界なんですよ、出版界って。
新井大手の日経さんに、「中堅」というある種お墨付きをいただくということは、まんざら悪いことでもないから、これから名刺に「中堅出版社」という肩書きを入れてもいいかもしれない(場内笑)。いやほんとうに、設立30年目にして、画期的というか面白い出来事を経験しました。
僕、この伊丹十三賞をいただいて、やっぱり何か「闘ってこいよ」と言われたような気がしたんです(場内笑)。30周年ということも奇妙な符合だし。賞をいただいて、ここから何かあらたなスタートをしなさいと――後ろをポンッと押された感じがしています。それもまた泥船で漕がなきゃいけない(場内笑)、ちょっと明日はわからない状態なのは同じですが、でも楽しいですね。
松家新井さんがかなり活字にできないことを話して、僕だけ良い子でいられないので、一つだけ活字にならない話をしますと、『考える人』という雑誌を創刊する時に、企画書を持って取次に説明に行ったんですよ。「こういう雑誌をこれから作るので、扱いをよろしくお願いします」と。そうしたら、企画書を読むなり、「これ売れませんよ。まぁ7,000部出発かな。でも7,000部出発の雑誌というのは、だいたい次の号を出したら6,000部、5,000部、4,000部と間違いなく減っていくので、続けられないと思うんだよね。あっという間に休刊だよ。こういう雑誌を作りたい時は、もっと事前に相談してくれなきゃ」と言うんです。
それで家庭菜園の雑誌をドンとテーブルの上において、「この雑誌は、事前にさんざん我々と相談した結果できた雑誌なんだよ。だから売れてる。こういうふうに作ってくれなきゃ」と言われました。もう、はらわたが煮えくり返って(場内笑)。それでもう、ますます「絶対成功させてやる」というふうに思ったから、ある意味で取次の担当者には感謝していますけど(場内笑)。だから新井さんに、その取次問題を聞いた時に、すごく握手したいくらいの……ね? そういうところがあるんですよね。
新井ほんとうに。
松家でも、それもやっぱり取次を悪者にしても実はしょうがなくて。実は取次の大株主には大手出版社が入っているんです。印刷会社も出版社も取次も、みんなお互いに株を持ち合っている、そういう業界なんですね。だからお互いに不満を持ちつつ、決定的に「こうしろ」とは言えないような、しがらみの構造になっているわけです。
さらに遡ると、大手取次会社の原型は戦前にまで遡るんです。戦時中は出版統制が行われたんですね。出版社の数も一気にしぼられて、小さい出版社はどんどん看板をおろした。用紙の手配も自由にならない。もちろん自由な出版活動は制限されました。そのような出版界を束ねる組織は当然、GHQによって解体されるんですけど、戦後、あらたに出版業界を流通をふくめて再編する時には、その解体されたものがまたガラガラポンと復活したわけで、なかで本や雑誌を扱っている人たちはほとんど重なっていたんです。だから戦時体制を影のように残して、大手取次が再編されたといっても過言ではない。大手二社だけで、たぶん今80%ぐらいのシェアなんですよ。完全な独占状態と言っていい。他に5社ぐらいおおきな取次があるんですけど、トーハン、日販の力が圧倒的なんです。でもそれは、トーハン、日販が悪者というんではなくて、出版界全体がそういう道を選択してきた。出版社もそれを望んだ。だから、僕が取次の人間だったら『考える人』の編集長に同じことを言ったかもしれない。さんざん売れない雑誌、売れない本ばっかり回されてきたら、うんざりするじゃないですか。「もっとマシなもの作れよ」と言いたい気持ちになるのもわかる。
だから、新井さんも僕も、大手取次に入っていたら(場内笑)、恨まれるようなことを言っていたかもしれない。そういうこともいちおう言っておかないといけない(場内笑)。ちょっと良い子すぎますかね(場内笑)?
新井(笑)

松家ただ僕は、「出版不況、出版不況」とみんな言うんですけど、そういう時こそ最大のチャンスだと思うんですよ。
実は、1960年代~70年代の高度経済成長とともに、出版界はたいへんな勢いで成長したんですね。でも60年代のその成長の突端の売上部数とか刊行点数に比べたら、今の方が何倍もの数なんです。本を読む裾野ははるかに広がっている。
だからやっぱり出版界は内輪でお互いワーワー文句や不平を言っているんじゃなくて、これだけ裾野が広がった中で、それぞれの役割をもう一回考えなおして、「流通をこう変えてみましょうか」とか、「書店さんとのやりとりも、こういうふうに変えてみましょうか」「出す本や雑誌のことをよく考え直してみよう」とか、新しい取り組みができるいいチャンスじゃないか。そういう面白い時代にいるんだ、というふうに僕は考えるようにしているんです。そこに、こういう「突破する人」がポンッと出てくると、それがきっかけになって動き始めることだってあると思うんですね。面白いところに差し掛かっているんじゃないかなというふうに僕は思っています。
新井そうですね。今日は皆さん時代の証言者になっていただいて(場内笑)。僕が来年どうなるか、松家さんが来年どうなるか……すごく楽しみだと思う。
たぶん、少しずつ変わっていく、というのが前提なんです。
というのは、村上さんの本であたらしい試みをやったことによって、紀伊國屋書店に「自分たちもこれをやりたい」と、ほかの出版社も手を挙げているんですよ。そうすると、少しずつ少しずつ本当に変わっていく兆しが見えてくる……明治維新までいかないかもしれないけど(笑)。なんかね、ちょっと変わるような気がして。
それに大手流通の人たちのなかにも「今のシステムじゃだめだ」と思う人だって当然いるでしょう。だから、自分たちの既得権益をどう守るかではなくて、「出版」というものが、もう一回新しく生まれ変わる、来たるべき文化として語られるべきものだと思うんです。
ネット書店だって敵ではない。すごく便利だし、有効なところもある。実際に紀伊國屋書店もネットをやっているわけですから。そこのところもふくめて考えてあらたな裾野を生み出してほしいな、というふうに切に願いますよね。
ですから、(客席に向かって)皆さんの役割は雑誌をたくさん買うこと(場内笑)、本をたくさん買うことを、ぜひお願いしておこうと(場内笑)。
松家一つだけ、ちょっと自慢話みたいになっちゃいますが。
この『伊丹十三の本』を出したあたりで記念館の話も始まって、僕も伊丹モードまっしぐらになったんですね。その時に、「文春文庫」に入っていた伊丹さんの文庫が品切れだったんです、どれも。それを「新潮文庫」で出し直したらどうだろうと思ったわけです。しかも文春文庫って、矢吹申彦さんが文庫用にイラストレーション描いていて、これはこれで素晴らしい文庫だったんですけど、考えてみたら伊丹さんが単行本で出した時の、伊丹さんが自分で装幀した形では出ていなかったので、「これを全部、伊丹さんの自分の装幀に戻して、もう一回新潮文庫で出したらどうだろう」と思ったんですよ。
文春文庫にお願いをして、新潮文庫で復刊したら、これがとてもよく売れた(場内笑)。増刷につぐ増刷だったんです。映画監督の伊丹十三も知らないような若い書店主がやっている渋谷のある本屋さんが、「伊丹さんの文庫はすごく売れるので、こうやって並べています」とその書店の特等席に並べているのを見せてくれて説明してくれたり。「『伊丹十三フェア』をやりたいと思っているので、そのときには手伝ってください」と言われたりするぐらいなんです。伊丹十三という人をこれまで知らなかった20代の人たちが、面白がって読んでいるらしい。
だから本というと、ついつい新しいものを次々出して読者を探すということばっかりやっているところがあるんですけど、本当に良いものは、時代が変わっても読者が代わっても伝わるんだというのが、やっぱり伊丹さんの文庫を出し直して、わかったことなんですよ。
CDだって、古い名作を次々出し直して「紙ジャケット」にもしたりして、つい同じものを買ったりするじゃないですか。だからやっぱり内容がすごく大事なんであって、新しいものも、もちろん出さなくちゃいけない役割もあると思うんですけど、本当に良いもの、クラシックと言えるようなものを、きちんともう一回、今の読者に届けるような工夫を、出版社はすることによって、また新しい読者を発掘できるんじゃないか。そういうことを、伊丹さんの力を借りて実感できたんですよね。
新井だから僕、今後は仕事に悩んだらこの記念館に来ます(場内笑)。
――昨日、すごく特別に、ふだんは非公開の収蔵庫を歩かせていただいた。

松家今日、皆さんが御覧になった展示室の反対側に、おおきな収蔵庫があるんですよ。収蔵庫というと、なんか倉庫みたいに思われると思うんですけど、たとえば伊丹さんの自宅であった時もある、『お葬式』の舞台になった湯河原の家があるんですけど、そこのリビング・ダイニングが完全に再現されて、その書棚もそのまま再現されて作られていたりもする収蔵庫なんです。それを年に2回とか3回、公開しているんでしたっけ?
玉置(伊丹十三記念館・館長代行) 一般の人には1回です。5月に。
松家5月だそうです。
新井それは抽選なんですか?
玉置はい。
新井今日来ていただいたようなラッキーな方は、応募すれば可能性がある。
玉置御覧になったことのある方もいらっしゃるかもしれないですね。
新井そうですか。
松家この収蔵庫は、もしご覧になってなかったとしたら、ぜひ今度の5月に応募していただくと、「ああ、これは来てよかった」と思うくらい、もういろんなものが見られます。
玉置会員になっていただくと、もっとチャンスが増える(場内笑)。
松家(笑)会員になってくださいね。
新井会員になるためには、どうすればいいんですか?
玉置年会費をおさめていただいて(笑)。
松家ウェブサイトをよくチェックしてください(場内笑)。会員になれると?
玉置また別に2回チャンスが。
松家年に2回もあるそうです、チャンスが。
やっぱり、こういう記念館って「どうやって維持していくか」ということもすごく大事なことなので。伊丹十三賞というものも、それを盛り上げるということも含めてやっているんですね。僕もいろいろ知恵を使いたいと思っているんですけど、でもやっぱりこうやって来てくださる方々が支えるというのは、基本中の基本なので。
(お客様に向けて)ぜひみなさん、会員に(場内笑)。もしよろしかったら、ぜひなっていただきたいなと思います。
新井はい、ぜひ。
僕、展示も時間をかけて観たんですけど、実は一番ジーッと観ていたのは、2階の収蔵庫の本棚とか、どんな本を読んでいたのかということでした。創作の秘密というか。一番大事な伊丹さんの「想い」みたいなものが、静かにヒタヒタと寄せてくるんですよ。それを感じ取るだけでもすごく宝物のような感じがしました。それを観て、また展示にもどると、また別な想いが湧いてくる。そんな興奮をクールダウンするために、この回廊がある。なんだ、いつまでたっても帰れないなあ、みたいな(場内笑)。すごく楽しかったです。
松家びっくりしたのは、伊丹さんは、あっという間に海外でも評価が高くなって、ハリウッドからもいろんな声がかかってきたわけですね。その当時はまだメールはなくてFAXでやりとりしていたんですけど。そういう、ありとあらゆるやりとりが、捨てられずに全部取ってあったんですよ。
新井へぇ。
松家ものすごくびっくりしたんですけど。
たとえば、伊丹さんの映画のタイトル・ロゴがありますよね。あれは、伊丹さんにアイデアのベースがあって、それをデザイナーに発注して最終的な仕上げをするんですけれど。伊丹さんは「明朝体を書かせたら日本一だ」という自負があった方ですから、相当またそれにも注文がつくんですよ。今だったら、完全な分業体制で日本映画って作られているので、どういうデザインかは任せるしかない。伊丹さんは任せきりにしないから、そのタイトルのやりとりだけでも膨大なFAXが残っています。それも全部保存されているんですよ。
だからこの伊丹十三記念館は、展示の材料については、まったく心配はないんです。まだまだ猛烈な材料が収蔵庫にある。嬉しい悲鳴というぐらいの宝の山が収蔵庫に眠っているわけです。それが観られるようになっていますので。ぜひ会員に(会場笑)。

新井松家さんは伊丹さんから教わった最大のことって何ですか?
松家伊丹さんというのは、中学時代から繰り返し読んできたんです。僕にとっての「人生の先輩」、先生、ぼくのおじさん、なんですよ。テレビ番組やコマーシャルで姿を見ると、とにかく格好いい。果たして自分は、伊丹さんのように生きられるだろうか、みたいなことまで本気で考えましたから。全存在的に影響を受けました。
僕は新潮社に1982年に入ったんです。仕事にある程度慣れてきて、じゃあいよいよ自分が会いたい人に連絡をして会おうということになった。たぶん翌年の1983年だったと思うんですけど、伊丹さんに手紙を書いて「会ってください」とお願いして会いに行ったんです。それが最初でした。一番最初の時は、事務所のそばにあった、もう今はもう無い「狸穴そば」という、六本木の先の飯倉片町にある、すごくいいお蕎麦屋さんだったんですけど。そこに行って、初めて憧れの伊丹さんと向き合って喋ったわけです。
なぜかつづけて3回4回とお会いしたんですけど。4回目ぐらいの時に、「松家さんね。僕はこれから映画をやるんです。もうエッセイは書かない。そういう仕事はできないんだよね」ということを言われた。それが『お葬式』だったんですよ。最初の試写会に呼んでくださった……という。
新井そうなんだ。
松家だから僕にとっては、エッセイを依頼して、エッセイを書いてもらうということはついにできなかったんですけど、「これから映画に入るんだ」という瞬間、その伊丹さんと出会えたんだなという。
新井ああ、すごい。
松家そういう意味で言うと、特別なタイミングで伊丹さんに会っていたんだなって、いまになって思います。
新井そうなんですね。
松家その頃には手紙も頂戴しています。それはまだ記念館には手渡したくないので、今のところ自分の宝(場内笑)。でも、自分がだんだん危うくなったら――
新井(笑)寄贈ですね。
松家(笑)寄贈しようと思いますが、今のところは、絶対に渡したくない(場内笑)。
新井(笑)
――僕の場合はね、大江健三郎なんですよ。
僕ね、15歳の時に大江健三郎になりたかったんですよ。


松家そうなんだ。
新井日記に書いていたりするんです。
松家「俺は大江健三郎になる」って?
新井「大江健三郎になる」って。「作家になる」じゃなくて。
というのは、『芽むしり仔撃ち』という作品が大好きで。あの主人公に自分を投影できたんです。自分のまったく見たこともない山あい谷あいの村を、15歳で想像した。川に流されることとか、閉鎖された状況の中でどう生きていくかみたいなことをリアルに感じていたんです。
だから、僕が一番最初に大江さんにお目にかかったときは、本当に、松家さんにとっての伊丹さんかもしれないけど、そぞろ雨降る成城学園に、駅まで迎えに来てくださって、成城学園を案内していただいて。「これ、大岡昇平さんの好きな桜です」とか、歩きながら説明を受けて、至福の時を味わったんです。だから、松山に来るということは、僕にとっては、「大江さんに近い場所に来た」ということでもあったので。ドキドキしながらも、すごくあったので。
松家『SWITCH』で大江さんの特集したのって、何年ぐらいでした?
新井92年だったと思います。
松家大江さんが表紙になっている『SWITCH』がありますね。このとき徹底して取材してましたね。故郷の大瀬まで行って。
新井最初にインタビューをさせていただいたときは、「1時間だけ」という話でした。やっぱりそれが1時間で終わらなかったので、「じゃあまた来週いらっしゃい」といってまたやって、また終わらなかった。そりゃあそうですよね、こちらは、会いたくて会いたくてしょうがないし、いろんな質問があるし。だから、繰り返しやりとりさせていただいたんです。そのとき、「君は僕よりも風景に興味があるんじゃないですか?」と言われてドキっとした。『芽むしり仔撃ち』の舞台となった世界が見たかったので。「じゃあ大瀬に行きましょう」といってくださって、大江さんを案内人にいろんな場所を訪ねることができたのは、僕にとって、編集の30年の中で、たぶん最高の時だったんじゃないかなと思っています。
今回松山に来て、それをふたたび思い出して感じながら――と同時に伊丹さんの存在をあらためて思い描きながら――さっきも言いましたが、「宿題」というか「もう一回、特集したいな」と思ったんです。それは大江さんの特集であり、伊丹さんの特集です。自分にとって、どこか遠くに追いやってしまったことが、ふたたび頭をもたげてきたというか。それは、僕にとっては生き生きした瞬間をもう一回取り戻す大きな機会になるはずなんです。30年もやると、やっぱり飽きちゃうじゃないですか。倦(う)んじゃうというか。旅でも、「夢見た旅」と「余儀ない旅」のふたつがあるように。何度も同じ場所に行くと、自分はもう知っている場所だし、なんか飽きちゃったりするんですね。
自分にとって30年のあいだにいろんな軌跡があったんですが、もう一回この30年を機にこういう賞をいただいて、伊丹さんの決して手を抜かない仕事──口で言うのは簡単なことだけど、ものすごく難しいことじゃないですか──このことをあらためて考えました。僕は、ややもすると手を抜いちゃったり、ショートカットしちゃったりするんです。それはやっぱりダメなんじゃないかということに気づいた旅でもありましたね。
(松家さんに向かって)いつかまた、二人で伊丹さんの特集作りたいなって本当に思ったり、大江さんの特集作りたいなと思ったので。そしたら、またここに呼んでください(場内笑)。
松家これがきっかけで、また松山に来ることになりそうですよね。
新井ねぇ、呼んでいただけたらうれしい。松山ってやっぱり好きなんですけど、大江さんのこともあって、近くなったり遠くなっちゃったり。いろいろあるじゃないですか。恋愛感情と同じものがあるのかもしれない(笑)。
記念館でこうしてお話ができたこともすごく嬉しい。やっぱり何度も言うように、伊丹さんをもっと知りたいと思いました。僕は一回しか会えなくて、会えたことを何かかたちにすることまではできなかったけど、でもそれは、宿題が残ったということです。
僕はこの賞を、そのために頂いたんだなと思いました。ありがとうございました。
松家ますますご活躍ください。

(場内拍手)

松家どうもありがとうございました。
宮本――今日は、新井さん・松家さん、本当にありがとうございました。まあ、なんと深い話をたくさん伺ったことでしょう。本当に幸せでした。
では頭を冷やしに、どうぞ桂の樹の方に皆さんいらしてください(場内笑)。
本日は誠にありがとうございました。

(場内拍手)


― 終演 ―

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