ジャニー喜多川氏の貴重な肉声・見切れなどを除けば、最初にして最後の正式なメディア出演だった。
2015年1月に放送された『蜷川幸雄のクロスオーバートーク第1回ジャニー喜多川』の文字起こし
蜷川幸雄のクロスオーバートーク第1回ジャニー喜多川
シリーズ第1回は、ジャニーズ事務所の社長であり、演出家のジャニー喜多川さん。
フォーリーブスに始まり、SMAP、嵐といった国民的アイドルを50年にわたり、育てているジャニー喜多川氏の素顔に、蜷川さんが迫ります。ジャニーさんの思い出の曲もたくさんおかけします。
(ナレーション)蜷川幸雄のクロスオーバートーク第1回ジャニー喜多川。この番組は演出家の蜷川幸雄さんが一つの世界を極めた巨匠を尋ね、極意を聴くインタビューシリーズ。1回目の今夜はジャニー喜多川さんです。ジャニー喜多川さんと言えば、SMAPや嵐といった日本を代表するアイドルたちを世に送り出したジャニーズ事務所の社長です。また、ジャニーズ事務所のアイドルが出演する華麗な舞台を作り上げる演出家でもあります。蜷川さんとジャニー喜多川さんの親交は50年にも及ぶのだそうです。
(ナレーション)インタビューを行ったのはある雨の夜の劇場。その日の舞台では、ジャニー喜多川さん演出のミュージカルが上演されていました。満員の客席の後ろで蜷川さんはジャニーさんと肩を並べて、舞台を見つめていました。蜷川幸雄さん79歳、ジャニー喜多川さん83歳。舞台からこぼれるほのかな光に照らされて、時折言葉を交わす二人が会うのは3、4年ぶりだとか。インタビューはその舞台を見た後始まりました。
(ナレーション)インタビュー前に二人の巨匠が見ていたのは、ジャニーさんが作・構成・演出を担当したミュージカル『DREAM BOYS』で、およそ1か月分のチケットが即日完売したという大人気舞台でした。
(ナレーション)蜷川さんは20年ほど前から、舞台に出る出演者をジャニーさんに紹介してもらっていると言います。その第一号は男闘呼組のメンバーだった岡本健一さん。1989年のことでした。続いてのアイドルは、SMAPの木村拓哉さん。唐十郎さんの作品『盲導犬』の出演者を探していた蜷川さんの頼みを聞いて、ジャニーさんはSMAPの木村さんと中居正広さんの二人を蜷川さんのもとへ連れて行ったと言います。
(ナレーション)蜷川さんは忘れていましたが、ジャニーさんは少年隊の東山紀之さんも蜷川さんと引き合わせたことがあると言います。
(ナレーション)こうして、若いころからジャニーズのアイドルたちと深く関わってきた蜷川さんですが、常々抱いていた思いがあるそうです。それは、ジャニーさんに紹介されて起用したV6の森田剛さんを見て感じたことだそうです。
(ナレーション)そして、2011年から2012年にかけてギネス世界記録に「最も多くのコンサートをプロデュース・最も多くのチャートNo.1アーティストをプロデュース・最も多くのチャートNo.1シングルをプロデュース」の3部門に認定されます。
(ナレーション)ジャニーさんは、アイドルとして芸能界で成功するための一番の資質は「真面目なこと」だと言います。
(ナレーション)話題は最近の若者たちへと移ります。
(ナレーション)そしてお話は人気絶頂の嵐にも及びます。
(ナレーション)ここでジャニーさんの好きな曲をお届けしましょう。「ジャニーさんの好きな曲はなんですか?」そう初めて聞いたとき、一瞬じーと考えて困ったように言いました。「音楽を提供するプロという立場としては、好きな曲を答えずらいです。それからしばらく話をした後で、ジャニーさんはふっと思い出したように笑いながら言いました。「本当はたくさんあるんだよね、好きな曲」すぐには答えられなかった分、音楽に対する強い思いが伝わりました。ジャニーさんの好きな曲、たくさん紹介したいと思います。先ほどお話に出てきたモンキーズ。そう、あの有名な曲を歌ったグループです。"Daydream Believer"
パート③ ジャニーさんと戦争のおはなし
(ナレーション)ジャニー喜多川さんのキャラクターは日本とアメリカの二つの祖国ではぐくまれてきたものです。生まれたのはアメリカロサンゼルス。1931年、昭和6年のことでした。ご両親はともに日本人ですが、布教のためにアメリカに渡っていました。しかし、太平洋戦争が勃発し、10歳を過ぎたころ、父親の故郷である和歌山に身を寄せます。数年後の昭和20年(1945年)、戦争末期にあった空襲が今でも忘れられない体験だと言います。ジャニーさんが空襲に巻き込まれたのは、偶然の出来事がきっかけでした。
(ナレーション)ジャニーさんが空襲に合ったのは、和歌山市内。アメリカで生まれ育った自分が、アメリカ軍の攻撃を受けていることに割り切れない思いを抱いたと言います。
この辺りのストーリーは舞台『少年たち』にも出てきますね。「そういうことが多い」とは、ジャニーさんが当初「日航機墜落事故」の飛行機に乗る予定だったということを指しているのかな?と考えています。
(ナレーション)終戦後、ジャニーさんはアメリカロサンゼルスに戻り、その何年か後に始まった音楽番組「Perry Como Show」をよく見ていたと言います。歌手でありながら番組の進行もこなすエンターティナーPerry Comoの声が大好きだったそうで、彼の曲なら全て好きだとか。その番組を見ていたちょうどそのころ、ジャニーさんが芸能人に接したいわば原風景となる体験をすることになります。その話はまた後程。まずは曲をお聞きいたしましょう。Perry Comoで「Papa Loves Mambo」
(筆者補足)ジャニーさんは戦後、またアメリカに戻り高校・大学をロスで過ごします。
引用:産業としての「ジャニーズ」を科学する
昔ジャニワの時に、ちびっ子ジュニアに切符切り(入場スタンプ押)をさせたり、ジュニアの子に先輩の早替えを手伝わせたりしますが、これはジャニーさんが学生時代に学んだことをジュニアへ伝えているということだと考えています。
(ナレーション)終戦後、ジャニーさんはアメリカロサンゼルスに戻り、現地の高校に通い始めます。その数年後、歌手の美空ひばり、笠置シズ子といった日本からアメリカ公演に来た芸能人と接したことが、芸能生活に関わった始まりだと言います。
(ナレーション)ジャニーさんは日本からアメリカに来た芸能人たちが、ロサンゼルスで講演を行う際、通訳を含め色々お手伝いをしたそうです。その時、はるばる海を渡ってきた芸能人たちの力になろうと、自分の利益は考えなかったと言います。
(筆者補足)ジャニーズが肖像権にうるさいのは、このあたりの考えが根底にあるからだと言われています。
(ナレーション)ジャニーさんが、ロサンゼルスから日本に帰国したのち1962年頃に30歳を過ぎてから映画「ウエストサイドストーリー」と出会います。
(ナレーション)ジャニーさんに事務所を立ち上げる決意をさせた映画「ウエストサイドストーリー」その中でも一番好きなのは「COOL」という曲なのだそうです。ダンス曲としても最高なのだと説明してくださる表情はまさに真剣。本当に好きなんだという思いが伝わってきます。この曲がなければジャニーズ事務所を立ち上げることはなかったかもしれませんね。映画「ウエストサイドストーリー」から「COOL」
(ナレーション)ジャニーズ事務所が立ち上がり、いよいよ芸能界へ参戦。そこからジャニーさんのスター育成が始まります。ジャニーさんがアイドルを育てる上での哲学とは?
(筆者補足)前半部分は、2019年の舞台『少年たち』で「ジャニーさんの声の挿入」で使われていた部分だと思います。
(ナレーション)蜷川さんの印象に残ってるのは俳優の藤原竜也さんだと言います
(ナレーション)蜷川さんは俳優を育てるとき、気づいたことは事細かに指導すると言います。
(ナレーション)スター育成についてジャニーさん独自の哲学がある一方、若手に接するとき譲れないポリシーもあるようです。
(筆者感想)思いは全て作品に詰め込んでるということですかね?だからあんなにトンチキに笑 思いが詰まりすぎて思考が追い付かないんですよね。隙あらばシェイクスピアつっこんでくるし笑
(ナレーション)ジャニーさんは最近の若者について、こんな感想も持っています。
(筆者感想)ジャニーさん、ジュニアと一緒にゲーム機使ってゲームして、ジュニアにぼこぼこにされたエピソードもありましたね。子供たちが遊んでる様子(表情)をチェックしているといわれていますが、どうなんでしょう
(ナレーション)蜷川さんも最近の若手にはいい素質を持った人が多いと感じています。
(ナレーション)蜷川さんの俳優を育てていきたいという情熱は、並々ならぬものがあります。
(ナレーション)蜷川幸雄さんとジャニー喜多川さん、お話を聞いているとお二人ともそれぞれ自分が育てた俳優やアイドルたちにも演出家としての方法論を伝えていこうとしています。いったいなぜなのでしょうか?
(ナレーション)蜷川さん、ジャニーさんの思いの深さに改めて脱帽です
(ナレーション)さて、ジャニーさんは今後も舞台の演出を若手自身でやるように言い続けるのでしょうか?
(ナレーション)自分の持つ情熱や方法論を後世に伝えたい。それは蜷川さんもジャニーさんも同じ思いです。
(ナレーション)芸能界の第一線を走り続けてきたジャニーさん。そんなジャニーさんのことを蜷川さんはどう思っているのでしょうか。
(ナレーション)ジャニーさんはこれまで何を思い、何を信じて演出家としての道を歩んできたのでしょうか。
(ナレーション)そして、大切な舞台を見に来てくれるお客さんをジャニーさんどのように感じているのでしょうか?
ジャニアイ・ジャニワ
(ナレーション)ではここでジャニーさんの思い出の曲をお聞きいただきましょう。今回挙げていただいたラインナップの中で、唯一ジャニーズ事務所のアイドルが歌った曲です。元々はとてもアップテンポの洋楽なのですが、スローにアレンジしたお気に入りの曲なのだそうです。あおい輝彦で「時計を止めて」
引き続きジャニーさんインタビュー集 最後は面白ジャニーさんの話です。
(ナレーション)インタビューも終盤に差し掛かりました。ジャニーさん最近起こった大事件があったそうです。いったい何が起こったのでしょうか。
(ナレーション)そんなおちゃめなジャニーさんに、蜷川さんのどこがすきなのかきいてみると子供のような笑顔で答えてくれました。
(ナレーション)若いスターを束ねるジャニーさん、一方の蜷川さんは幅広い年代の俳優に挑戦を続けています。違う個性を持つ者同士、二人は互いをとても尊敬しています。
(ナレーション)83歳を過ぎてもなお舞台への情熱を失わないジャニーさん。蜷川さんはますますジャニーさんが活躍することを期待しています。
(ナレーション)そして最後にジャニーさんはこれからやりたいことを教えてくれました。
(ナレーション)では、ここで最後にジャニーさんの思い出の曲をもう1曲。昔から大好きな歌手、それはドリス・デイ。歌手でもあり女優でもある彼女が出演する映画は必ず劇場に観に行ったそうです。「彼女は歌にドラマがあるんだよね」思い返すようにジャニーさんは言いました。ドリス・デイで「センチメンタルジャーニー」
(ナレーション)今回のインタビュー収録時間は2時間以上に及びました。最後にマイクを外した蜷川さんがジャニーさんに一言声を掛けました。ジャニーさんも真剣な顔で答えます。
(ナレーション)演劇界の巨匠蜷川幸雄さん。国民的アイドルを次々と世に送りだしたジャニー喜多川さん。二人の巨匠のお話、いかがでしたか?俳優とアイドル、ジャンルは違いますが、若手を育て上げようという深い思いには通じ合うものがありました。円熟してもなお尽きない二人の情熱は、これからも新たな世界を切り開いていくことでしょう。
おわり