指運というものについて 藤井ー豊島

4日に行われた王座戦挑戦者決定戦は、既報の通り藤井竜王名人が勝って8冠目の王座挑戦を決めた。
ここでは、この将棋の終盤に訪れた奇跡的な手順と、それがもたらした勝敗の分かれ目について簡単に振り返ってみたいと思う。一般に将棋は完全情報ゲームと言われ、全てが対局者2人の指し手によって決定されるため、その結果に偶然が入る余地はない。にも関わらず、稀にお互いが死力を振り絞った先に、勝敗を分けるのが運によるものではないかと「錯覚」してしまう時がある。その時に将棋指し達が使う言葉が「指運」である。
指運とは、なかなか出てくる言葉ではないため、説明する機会もなかなかない。ただ、本局のような将棋に関しては、この言葉を使わなければ説明のしようがないのではと思われる。

ここで、簡単に本局の流れを振り返ってみよう。序盤は相居飛車から、先攻する先手の藤井に対し、反撃を狙う後手の豊島という流れ。序中盤にリードを奪った後は受けに回って相手の攻めを余す展開を最も得意とする藤井だが、本局は激しい攻め合いの順を選んだ。中終盤の戦いで優位を築いた藤井だが、豊島もうまく勝負のあやを作って藤井玉に迫り、決め手を与えない。
そして豊島の打った角が取られて万事休すかと思われた局面から、怪しい桂の成り捨てが藤井の意表を突き、ついには逆転に至って最終盤を迎える。藤井の命運もこれまでかと思われたが、豊島玉に王手をかけて追い回しながら逆に自玉への詰めろを消して相手玉を受けなしに追い込む絶妙の手順が飛び出し、大熱戦を藤井が制することとなった。

本局の白眉は何と言っても最終盤の攻防であり、互いに死力を尽くした攻防は本当に見応えがあった。だが、藤井も豊島も限界を突っ走った先に勝負を分けたのはなんだったのか。確かに藤井の逆転術は見事と言うしかなかったが、私にはそれが必ずしも必然に起こったものとは思えないものがある。
そのような場合、先に紹介した指運(ゆびうん)と言う言葉がある。将棋は頭脳だけで戦うものではない、むしろ最後の最後には運の力、それも駒を持つ指の運によって決まるという考え方は、なんと示唆に富む言葉だろうか。
考えてみれば、将棋を指すという行為は、(近年こそマウスをクリックする事も出来るが)、自らの指を動かす行為に他ならない。長年の経験から、棋士達は直感的に指し手の良し悪しを指の感触で測れるようになる。これは決して比喩的な表現ではなく、良い手を指した時は実に良い感触があるものだし、逆に悪い手を指した時は駒から手を離した瞬間にー恐らくはそのいや~な感触からー自分の負け筋が見えてしまうものである。
それだけ身に染み付いているからこそ、勝負を賭けた最後の一瞬に自らの脳というよりは指を信じて、指す事が可能になる。

少し話は変わるが、何事にも筋というものがあると、私は思っている。そこを外さなければ大体は良い結果をもたらしてくれるものとす信じている。将棋を通しての体験もその仮説に根拠を与えてくれるが、自分ではっきり意識したのは、TVでサッカーを見ている時、ロベルト・カルロスが芯をとらえたボレーシュートを相手ゴールに突き刺した瞬間だったと覚えている。
この時、私はそれぞれの世界にはそれぞれの真理があり、それを外さなければ大抵は良い結果が出る事を実感できたのではないかと思う。

また、真善美という言葉がある。この3者は同立するものとして書かれているが、敢えて順番を考えると、真なるものは善であり美でもある、という捉え方が一般的なのではないかと思う。だが、ここで言ってしまえば、人間の直感に最も鋭く訴えかけてくるのは美ではないだろうか。即ち、美なるものは真であり善である、という事も言えるのではないか、これが私の中で大きなテーマとして残り続けている。
指運もそんな人間の鋭い感性によって築かれたものなのかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?