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とにかく進むしかない

      

出産後は、夫と娘は病院に
私は実家で両親と息子との生活を送っていました。

娘は固形腫瘍を後遺症が残らない程度に切除し
その後は化学療法で固形腫瘍を縮小させて
放射線治療をすることになっていました。

退院後、すぐにでも娘に会いに行きたかったけれど
母がそれを許されなかったのと
私も無理をして後々、体調を崩してはいけないと思い
産後21日が過ぎるまで
ひたすら、自宅で安静に過ごしていました。

息子は生まれた時から、おとなしく
自宅に戻っても同様で
大声で泣くことはありませんでした。

有難いことに、息子の泣かない体質が
母には育てやすい子と印象付けられ
産後21日経つと、私は母に息子を預けて
日中病院へ行くことを許されるのでした。

それからは、朝の8時から夕方5時まで
私は病院で娘の付き添いをし
その間に、夫は入浴、買い物などして過ごす事になりました。

病院から自宅まで交通機関を使って45分。
少しでも一緒に居たいがために
乗り物に乗っている以外は走っていました。
帰り際、娘の悲しそうな顔を見ながら
「明日も必ず来るからね」そう言って
泣きながら帰ったのでした。

帰りの地下鉄に乗ると、今度は息子のことを思い
帰り道を走って帰るのでした。
息子に満面の笑顔を向け
日中に寂しい思いをさせたことを
償うかのように振る舞っていました。

限られた時間、ひとつしかない身体を
いかに効率よく使うかを考えていました。
そして、私の全てを子ども達に捧げたい
そのような気持ちしかありませんでした。

娘の腫瘍は順調に縮小し
放射線治療をするところまで漕ぎ着けたのでした。
それが、私にとって何よりの励ましでした。

放射線治療前に、腫瘍を確認するための
簡単な手術を受けることになりました。
3センチほどの傷でした。
順調に行けば一週間後には放射線療法が
スタートすることになっていました。

私は、上手くいっていることに
感謝しても仕切れないほどの喜びを感じていました。
ところが、一週間後に傷は治らず
抜糸すらできなかったのです。

放射線治療は延期されました。
そして、次の一週間後も傷は治ることはありませんでした。
3週間になろうとしていた頃
やっと傷が治り、照射のためのマーキングをし
2日後に一回目の照射をすることに決まりました。

前日に採血し、明日の照射に備えました。
当日の朝、私は足取り軽く病院に到着しました。
先生が「ちょっと、いいですか?」と
娘の病室に行こうとする私を引き止めました。

夫も既に、ナースステーションにいました。
ただならぬ、雰囲気に私は恐怖を感じ
ゆっくりと、ナースステーションに入り
用意された椅子に腰掛けたのでした。

「非常に残念ですが・・・・」
娘の癌は全身に散っていたのでした。
もう、放射線治療どころではありませんでした。

傷が治らなかったことによって
無治療が続き、6回目の再発をしたのでした。

「明日までにどうするか決めてください」そう言われましたが
「決められない」と口をついて出てしまいました。
何故なら、どの道を選んでも
娘の未来は無かったからです。

治療はあるには有るが、いつ何が起きてもおかしくないし
完治は望めない。
無治療で過ごせば、余命半年。

明日には放射線療法が出来たはずなのに・・・
朝は希望に溢れていたのに
私は絶望の淵に立たされたのでした。

しかし、泣いている時間も
あれこれ嘆き悲しむ暇はありませんでした。
娘は今、生きている
無駄にできる時間は一秒もない
私は自分に言い聞かせました。

とにかく、娘の人生を無駄にしないように
そして、私が娘の立場ならどうしたいか
そうして考える他、私にはできませんでした。

最後まで読んでくださって、ありがとうございます。またの訪問をお待ちしています : )