料理は日常の「創造的ルーティン」である。

料理をしようと思った2つのきっかけ

2ヶ月ほど前から毎日ご飯を作るようにしている。動機は、フリーランスになって自由な時間が増えたので、家事を分担しようと思ったからではない。いくつかの動機があったのだが、大きなきっかけとなったことが2つあった。

一つは、昨年ベトナムやラオスに住んでいた時のことだ。僕らはキッチン付きのアパートメントに住んでいたのだが、日常の食事に苦労した。

ベトナム、ラオスも現地のものは美味しく、また外食は驚くほど安い。最初の頃はずっと外食をしていたが、だんだんそれも飽きてくる。現地の食事に飽きて、馴染みの食事が恋しくなると日本食のお店にも行ったのだが、だんだん「外食」そのものに飽きてきた。

そうなると自炊するしかない。でも、材料や調味料が簡単に揃わないし、何しろ料理が不慣れだと、自炊のハードルは限りなく高い。その結果、食べたいものを自分で作るという当たり前のことができない不自由さを嫌というほど味わった。

もう一つは、これもベトナムとラオスにいた時の経験だ。滞在中に何度か、現地で知り合った人を家に呼んだことがあった。それはベトナム人であったりアメリカ人であったり、日本人であったりとまちまち。それまで我が家は自宅に人を招くということをあまりやっていなかったのだが、向こうではレストランにも精通していないし、外国人も日本人も「日本食を食べる」ということを楽しんでくれたので、そうなったのかもしれない。

これが自分でやってみて、とても楽しかった。
ベトナムで現地の人を招いた際に、「日本食で何が食べたい?」と聞いたら「すき焼き」という答えが返ってきた。そこで現地で和牛と野菜を調達して家で「すき焼きパーティ」をしたら、ベトナム人は興味津々で食べてくれた。

ラオスでは現地に住む日本人を招いて、なんてことのない、日本のカレールー使ったカレーを作った。これがとても懐かしがってくれて「ラオスで食べたカレーで一番美味しい」と言ってくれた。

現地の食材で作ったすき焼き、それにカレールーで作ったカレーライス。ともに、こだわりの料理でもなく、「特別な」ひと手間もない料理であるが、それでもこんなに喜んでもらえるんだと。
料理とは、食べるという人間の根源に直結する技術であり、かつ人に喜んでもらえる技術。これが料理を始めてみようと思う大きなきっかけとなった。

日常の料理をするというゲーム

最初の頃は、料理が一日での一大イベントであったが、最近は日常の一部になりつつある。まだまだ出来ないことが多いが、手順はどうにか、何となく形になってきた。それはゲームをしている感覚である。僕が目指しているのはプロの料理というより、日常の料理をサクッと作ることである。

普段、家で仕事をしていているとき、6時になると仕事を終え、台所に直行する。冷蔵庫の中の食材を調べるのだ。できるだけあるものを使ってメニューを決めたいと思っている。メニューは頭にストックがないので、ネットやアプリを使ってレシピを見ながら決める。この意思決定が一番大変だが、ゾクゾクする。昨日と同じようにならないメニューも避けたい、簡単すぎるのもつまらないし、難易度が高すぎるのも心配なので、自分のスキルよりちょっと難しそうなメニューを作ってみたい。

メニューを決めたら、足りない食材を買いに近所のスーパーに行く。
最初の頃はどこに何が売っているのかわからず、時間がかかっていたが、最近はようやくオートマチックに買い物できるようになってきた。

家に戻ると大体6時半。手を洗い、昨年末に購入したエプロンをつけるとスイッチが入る。頭の中では「タララッタンタンタンタン♪」というキューピーの番組のテーマソングが流れ、別の世界のモードになる。

最初に炊飯器を沸かし、それから食材を切ったり、レシピを逆算して時間のかかる工程から取り掛かる。温かいものはできるだけ最後に。目の前の作業に集中しつつ、マルチタスクも上手くなってきた。

夕食は7時半から。つまり30分でメニューを決めて食材を揃え、1時間で料理を終えるのが今の僕の目標になっている。料理の出来栄えはまだまだばらつきがあるが、どうにか、なんとなく、食べれるものが出せるようになってきた。

料理は、毎日アウトプットするクリエイティブワークのよう

この「日常の料理」をやってみて、つくづく思うのが、これは創造的な作業であると。
創造性が発揮されるのは、制約がいくつもあるからである。料理を作ると言っても仕事もあるので、無限に時間が使えるわけではない。食材もその日に調達できるものの中から、しかも「普通の日」の買い物として安く済ませる必要がある。こういう制約がある一方、出来上がりにはいくつもの要素を埋め込みたい。同じメニューは飽きるので目先を変えたい。お肉が好きでもそればっかりだと栄養のバランスが悪い。そして、もちろん「おいしい」ものを作りたい。

つまり日常の料理は、制約がいくつもあるのに、実現させたい要素もいくつもある。これらを鑑みて、あまり時間のない中でメニューを決めるのだ。じゃがいもと人参と玉ねぎがあると、「肉じゃが」を作ろうかと思うが、毎回そうだとつまらないので、発想を広げて違うものを考えてみる。

この「食べるものを決める」作業がとても新鮮である。なぜなら連続する日常の中で、毎日、これをしなくてはならないからだ。仕事でも、この手の意思決定が毎日あるシーンはあまり多くないかもしれない。「金曜日は豚汁」などと決めている家庭があるのもよくわかる。

メニューを決めることの特異性は、それが遊びではないことである。つまり「食事を摂る」というのは、生活の基礎的な行為であり、生存に直結した行為である。食べるものを作るという成果が目的であり「プロセスに意味がある」わけにはいかない。野球に例えると、三角ベースの遊びでもなく、練習試合でもなく、毎日が公式戦のようなものである。もちろん料理に勝ち負けはないが、毎回「食べるものを作る」という結果を出すことが求められるのだ。

もっとも公式戦とは言え、凸凹が許されるのも家庭の料理だ。焼きすぎたり、塩辛くても、プロの料理ではないので許される。材料が揃わなくて物足りない食事があっても構わない。そしてこの凸凹が容認させることは、セレンディピティ(偶発性)との出会いも意味する。いつか、とんでもなく美味しいレシピが偶然見つかるのではないか!そんな期待もある。

料理は儚い

料理を2ヶ月続けてみて、今のところ飽きる気配はない。
それは、料理が、創造的であり、かつ日常の欠かせないルーティン行為であることだろう。そして遊びではなく、本番であること。創造的だけどルーティン、かつ遊びではく本番。この一見相反するようなものが共存している日常の行為。これは、料理以外にあるだろうか。

さらにいうと、料理は儚い。毎日、異なる制約の中から創造性を駆使して、毎日その日ならではの料理が生まれるが、その成果物はすぐに人の胃袋へと消えていく。しかも、普段の料理など得てして人の記憶に残るようなこともない。これが毎日繰り返される。一回一回の家庭の料理は実に儚い。

儚さは積み重ねることで、あるとき想像もしていなかった世界を見せてくれることがある。料理を重ねると何が見えてくるのか。いまはそれが楽しみだ。


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岩佐 文夫

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