人を惹きつける東京で、人が人のストレスになる

久しぶりに日本に戻ってきた知人

先日、ラオスに住んでいた知人が久しぶりに日本に帰ってきた。ラオスは、隣国のタイやベトナムの経済成長を見ながら、遅ればせながら市場経済を導入して経済成長が始まったばかりの国である。人口も680万という規模。日本とは文化も経済も異なる。

そんなラオスから帰国した彼に「東京で何に驚いた?」と聞いたところ、日常的なある光景について話してくれた。

それは品川駅でのことだ。駅前でスーツを着た20代の男性が通りがかりの人に声をかけながらチラシを渡そうとしていた。ところが男性の声に反応する人は皆無。ほとんどの人がその男性を無視して、何もなかったかのように通り過ぎていたという。

これは東京にいる人には何ら珍しい光景ではない。しかし、帰国した知人にとっては違和感があったようだ。「ラオスだったら、誰かが話しかけたらきっと立ち止まるのに」と。

なるほど、これは言われてみたら、無関係の人とは言え無視するのが当然というのは、人と人の関係として不自然極まりない。先のチラシを配っていた営業らしき男性も、無視されるのは楽しいことではないだろうが、それに慣れているのであろう。そうでないと、辛くて続けてられない。これに慣れてしまうのも、どこか不自然だ。

僕も昨年3ヶ月間、ラオスの首都ビエンチャンに住んでいた。人口わずか70万人の小さな首都では、そもそも知らない人に話しかけてくる人はいないし、セールスの類もほとんどない。小さな町なので顔見知りになったラオス人とは通りがかりに挨拶するようになる。一方で、人口70万人の街には、東京に比べて当然ないものばかりだ。

都市の魅力は語りつくせない

ビエンチャンに比べ、東京は計り知れないほど便利である。ビエンチャンに24時間営業のコンビニエンスストアができたのはつい最近のことだ。しかもわずか一軒。東京では歩いて10分以内にどこでもコンビニはあるはずだ。ビエンチャンには電車がないが、東京は縦横無尽に地下鉄が通っている。それに世界中の有名レストランがお店を出すし、世界的なアーティストのコンサートが開かれる。服や靴を買うにも夥しい種類の中から自分の好みを選ぶことができる。これぞ都市の魅力だ。

何事も集積した方が効率がいい。狩猟や農作業などが中心の生活から食料確保の手段が多様化することで、人は都市に集まるようになった。集積効果によりインフラ整備が可能となり、水道や電気、ガスがいち早く整備される。そして人が人を呼び、多様性が生まれるのに呼応し、専門特化したさまざまな店やレストランがつくられていく。ますます都市は魅力を増す。多くの人が集まり、多くの魅力的な人に会える。それは生まれ育った狭い土地では考えられなかったことだ。自分と同じような人に会える確率も圧倒的に高い。故郷で孤独感を感じていた若者も、都市の人混みに混じることで癒される。

こうして都市の魅力はさらに増す。街は横に伸びるばかりでなく縦にも伸びた。高層建設が土地を倍々ゲームのように活用する手段となった。

東京の人は冷たいのか?

大都市に住む東京の人は、人を簡単に無視するほど冷たい人になってしまったのか。
僕も海外から帰ってくると、電車の車内で見る人たちの「周囲に閉じている」雰囲気を感じることが何度もある。イヤホンをしている人が多いというだけではなく、「話しかけないで」オーラをまとっている。「東京の人は周囲に無関心だなぁ」と思う。以前はこれは国民性や成熟した経済段階なのかと考えたことがある。しかし、今は人口密集によるところが大きいのではないかと考えている。

チラシを配る人を無視する東京の人も、山に行ったら知らない人にでも挨拶するのではないだろうか。車内で周囲を閉ざしている人も、気のおけない友達に出会うと表情は一変する。国民性を持ち出す前に、密集した都市が人に変化を強いる側面も見逃せない。

例えば、ラオスの首都ビエンチャンの人口密度(1㎢あたり)は、196人である。一方の日本は335人。東京23区では1万5234人となる。つまり東京は、ビエンチャンと比べると78倍もの集積していることになる。一人当たりの面積は78分の1しかない。当たり前のように生活している東京という空間は、なんと一人ひとりの空間が狭いのだろう。

きっと人口密度が1万人を超える街で暮らしていると、誰だって周囲の雑音の大半を遮断しないとやってられないのではないか。社交的か内向的かという性格以前の問題。街を歩いたり電車に乗ったりするだけで夥しい情報が目から耳から入ってくる。これらにいちいち知覚が反応してしまうと、それだけで自分の感覚を使い切ってしまう。膨大な外部入力から、自分にとって意味を咀嚼するのが追いつかなくなる。外部の刺激に反応するのに精一杯になると、それだけで消耗してしまうばかりか、自分という存在を亡失する。人はインプットから自分なりの意味を感じることで、自らの存在を確認するのではないか。

人が集まりすぎて生まれる新たな課題

僕自身、東京に住んで、多くの知人・友人に囲まれて生活している。フェイスブックで新しい友達になって人も東京の人なら、まず共通の友達がいる。あたかも東京という街で大勢の人と過ごしているかのようだが、実態は極々少数の限られた人の中で生きていて、その他大勢の人を無視するかのように生活しているのだ。

人とつながることで嬉しい自分と、人とのつながりを遮断したくなる自分がいる。ひょっとして東京では、つながりを遮断していることの方が圧倒的に多いかもしれない。人とのつながりを断ちたければ、都市に住む理由はなくなるはずである。

人は人に癒される。そして、人は人に疲れる。東京は多くのつながりを作れる街であり、かつ皆が何かを遮断しながら生きている街。

先日企画した「つながり」をテーマとしてイベントで、ある人の発言が印象的だった。この人はネットメディアを運営しているが、「意識的にネットを遮断する時間が自分にとって貴重だ」と言う。大都市の魅力は多く語られている。同時に、人口が集積する大都市の課題も、もっと語られるべきではないか。

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岩佐 文夫

読んでみよう2月

寒いねー。 今月こそは書きためた文章を上げるのだ。

コメント1件

今これをスタバにて読ませていただきましたが、ここもまた、人からなる森林の奥で孤独になれる場所として、重宝しています。
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