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瀧本哲史さんと『ハーバード・ビジネス・レビュー』と

瀧本哲史さんとの最初に会ったのは、あるイベントの控え室であった。一人パソコンに向き合う瀧本さんは、近寄りがたい雰囲気を出していた。今から6年前である。先鋒鋭い書きぶりの著書からも、一筋縄ではいかない人かもしれないと勝手に想像していたが、名刺交換をしてもその印象はあまり変わらなかった。

イベントでは、瀧本さんはパネルディスカッションのパネリストの一人として登壇し、僕はモデレータである。テーマは「働き方」であり、瀧本さんは持論でも戦略的な働き方を語っていた。話の流れはキャリア形成についてとなり、別のパネリストの方が「ご縁を大切にする」という発言をされて盛り上がった。僕も「なるほど、そういうものだよな」と納得しながら聞いていたら、こういう人情味のある見方に対し瀧本さんはどう考えるのだろうと思った。そこにイタズラ心も加わり、

「失礼ですが、瀧本さんも、人の縁を大切にする方ですか?」

と無茶振りしたら会場も湧いた。おそらく会場も、瀧本さんはロジカルに物事を判断する人という印象があったのだろう。それに対し、瀧本さんは、

「それが結構、重視しているんですよ」と言ってさらに会場を沸かせたのだ。

僕はこの一言で、すっかり瀧本さんを好きになった。
ついでに言うと、瀧本さんは、小さなつながりを大切にし、自分のアドバイスで行動した人には徹底的に支援すること、そして、公益に反するようないい加減な人には厳しく接すると語っていた。

当時僕は『DAIMONDハーバード・ビジネス・レビュー』(DHBR)の編集長をしていたので、その後、瀧本さんには多くの仕事をお願いし、その全て引き受けてくれた。原稿執筆はもちろん、インタビュー、イベント登壇などさまざまだ。なかには、2時間半かけて「絵を描く」と言う無茶な取材も快く引き受けてくれて、汚れないようにとエプロン持参で取材場所にやってきた。当時の瀧本さんはテレビ出演などを控えメディアの露出も「DHBRとクーリエしか出ないことにしている」と語ってくれた。

何より仕事の打ち合わせは毎回楽しかった。こちらの意図を瞬時に理解し、独自の考え方を出す。実現が容易でないアイデアも多いのだが、瀧本さんはその先の展望を楽しそうに語るので、こっちまでワクワクしてくる。

仕事ではこちらの依頼に対し、必ずと言っていいほどこちらの期待を外そうとする。原稿の内容は、受け取るまで全く予想できない。読んでみると、こちらの依頼に反するような書き出しだったりするのだが、最後まで読むと「こう来たか」と、想像もできなかったような結末である。まさに期待を超える人だ。メールの向こう側で、こちらの反応を楽しそうに笑っている姿を想像してしまう。

いつ頃からか、僕自身が抱える課題の相談相手になってもらうようになっていた。いわばメンターだ。数ヶ月に一度ほど、赤坂の中華料理店でお会いすることが多かった。編集長として悩んでいることを話すと、瀧本さんは状況を理解して、問題の本質を構造化し、壮大な視点とさらに具体的なアイデアまで次々と出てくる。本流で伝統的なDHBRブランドがどうデジタルの世界に移行すべきか、まるで自分ごとのように考えてくれた。広告と編集の関係について話していた時には、「岩佐さんはそんな汚れたデニム履かないで、高級スーツを着てクライアント先に行ったらいいじゃないですか」と、満面の笑みで話す。高級スーツを着ることはなかったが、僕自身、それ以降クライアントとの接し方が変わった。また当時、DHBRの最後のページに読者からの厳しい前号の批評を載せていたのだが、それも瀧本さんとの会話から生まれたアイデアだった。会うと必ず、自分の思考を超えた発想をもらえる。そればかりか、小さく考えていた自分を知り、かつ壮大な考え方を知り、毎回猛烈に勇気づけられた。

それは僕にとってどれだけありがたい時間だったか計り知れない。同時にいまになって思う。あの時間は瀧本さんにとって何の意味があったのか、と。きっと瀧本さんは、ああやって人の相談にたくさん乗っていたのだろう。そういえば、瀧本さんから一度だけ「お願いごと」をされたことがあるが、それは学生の就職相談に乗ってほしいというものだった。つまりこれも人のための労力なのだ。

最後にお会いしたのは、1年半ほど前。編集長も辞任し会社も辞め、これからやることを考えていた際に壁打ち相手になったもらおうと自分勝手な理由で時間をもらった。一通り話が終わったあと、珍しく「僕からも一つ相談に乗ってもらいたいことがあるんですがいいですか?」と瀧本さんが切り出した。そして、これからやってみたい構想を話され、それに相応しい編集者を紹介してほしいけど、いい人いませんか、と言う。僕はその場でその要件に合いそうな二人の人の名前を挙げ、そろそろ時間切れとなった。
店を出ようと並んで歩いているとき、瀧本さんは言った。
「僕は人を探すときは、その人がやってくれたらいいなと思う人に、聞くことにしているんです」と。瞬時にその意味がわからず、瀧本さんの顔をみたら「してやったり」という表情で笑っていた。「後日、具体的に話しを進めましょう」と言って別れたのが最後になった。

DHBR時代の話に戻るが、最後の仕事は3年前の2016年11月号への寄稿であった。この号は創刊40周年記念号で、普段の号にはない力の入れ方をした。特集は「未来をつくるU-40経営者」。過去の40年を回想するのではなく、未来を展望しようという方針で決まった。非連続な時代に求められるのは、未知なる未来を切り開く先駆者であり、40歳以下の未来をつくるリーダー20人を紹介するという企画である。特集ではこれら20人の方々を大体的に取り上げることにしていたが、それだけでは物足りない。経緯は忘れてしまったが、特集の締めの原稿を瀧本さんに依頼した。

当時、僕は瀧本さんの体調など知る由もなかった。亡くなられて、瀧本さんとずっと仕事をされていた方のブログを読んだら、2015年の夏から闘病生活は始まっていたということを最近知った。

僕らの記念号の原稿締め切りは2016年の9月13日。瀧本さんの原稿は遅れに遅れた。「体調を崩した」と連絡があったが、僕らはあまり深刻に考えていなかったような気がする。時間に追われるなか、担当編集者と瀧本さんとのやりとりは徐々に緊迫してきた。原稿の文字数は約8000字なので、簡単に書ける分量ではない。全体の構成がきて、それから前半部がきて、翌日に後半部が来た。それでも、瀧本さんは「クロージングが出てこない」と悩んでおられた。最終的に原稿が出来上がったのは、締め切りを3日過ぎていたのだが、それはそれは素晴らしいものだった。「参りました」の一言に尽きた。

掲載された記事のタイトルは「未来を希望に変えるのは誰か」。原稿では、僕らの企画に茶々をいれるように、「未来が予測できない時代に、未来をつくる人を予測しようというのは無謀である」という趣旨から始まる。いかにも瀧本さんらしい。その後、未来を希望に変えるためするべき5つのエッセンスを語る。ここまではすんなり書かれた部分だ。
そして、最後まで悩んでおられた原稿の締めは次のようになった。

DHBRは、経営リーダーのための雑誌で、行動して、変えていく当事者のための雑誌である。どんな経営理論も、実際に行動するためのヒントを与える記事であり、読み終えた後は、読者のターンが始まる。
京大のある教授は、卒業生に対して「今後、近況報告は不要である。ただ、Newton やScienceで皆さんの名前を確認することを楽しみにしている」という言葉を贈るという。
同様に、10年後のDHBR50周年記念号で、読者の皆さんの創った未来を拝読するのを楽しみにしているし、私自身もそうしたプロジェクトを少しでも多く創りたいと考えている。

まさに10年後に読み返される号にしたかった、僕らの気持ちを代弁してくれる言葉だ。それにしても病の中、瀧本さんはどんな気持ちでこの文章を書いたのか。どんな気持ちで10年後に想いを馳せたのか。

瀧本さんには感謝しかない。もうお会いできないということは、これまでのお返しを何もできない。「また一緒に仕事しましょう」の「また」はもう来ない。
この人はどれだけたくさんの人に自分の労力を捧げ、どれだけ多くの人を勇気づけたのだろうか。
瀧本さんにはエンジェル投資家、ビジネス作家、大学教員などさまざまな呼ばれ方をされたが、瀧本さんは瀧本哲史でしかなく、代わりがない。だから寂しい。

心よりご冥福をお祈りしています。



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