見出し画像

企業は責任を果たすために生まれたのではない

企業の活動が社会に軋轢を生むこともあるが、それでも僕は企業の力を信じている。衣服も洗剤もレストランも電化製品も。企業が提供しているものの恩恵は計り知れない。そして、何より企業の力を信じる理由の一つが、誰かの自由な意思から生まれたことである。

企業をつくる人は起業家と呼ばれるが、それはもともと、ただのひとりの民間人に過ぎない。起業家は、誰かに頼まれて会社をつくるわけでもなく、義務として事業を興すわけでもない。「やりたい」という個人の自由な意思から生まれるのだ。いわば自由主義の象徴のような存在が企業である。

ただし、企業には事業を続けることで責任が生じてくる。電鉄会社は、もはや自分たちの自由な意思で事業を止めるわけにはいかない。宅配業者やコンビニが社会からなくなると、どれだけ多くの人がどれだけ大きな困難に直面するか。事業を続けるにせよ、提供する製品やサービスの品質は、社会が期待する水準を常にクリアする責任が生じる。つまり、自由な意思で始まった企業が事業を継続させることによって、社会的な責任が生じてくるのである。

企業が背負う責任は、組織の内部にまで波及する。組織内には無数の責任を全うする仕組みがつくられることになる。ある部署がある部署に果たす役割を明記したものが、いわば組織図となる。責任はさらに細分化され、組織内で働く人たちに個々に個別の責任が割り当てられる。これがジョブ・ディスクリプション(職務記述書)となる。そして、社員は働く上で、これを全うすることが求められる。

自由な意思から生まれた企業が、責任を全うするための組織へと変貌してしまうとしたら、なんとも皮肉なものか。「やりたいこと」が「やらなければならないこと」に、いつのまにか姿を変えてしまうのだ。「やりたい仕事」が「やらなければならない仕事」になる悲劇は計り知れない。どう考えても、義務でやる仕事より、楽しくてやる仕事の方が成果が出る。そして実際に、企業において仕事を「やらされている」と感じている人も多いだろう。これは本来、企業をつくった人の想いから、随分と離れてしまった現実である。

欧米の企業社会では数年前から「ファウンダーズ・メンタリティ」(創業者精神)への回帰が議論されている。成熟した企業が、もう一度、創業時のメンタリティを取り戻そうという議論である。これは、イノベイティブな組織風土の重要性も謳っているが、むしろ、義務感や責任を全うするマインドから、「やりたい意思」への原点回帰が最も本質的なメッセージではないだろうか。

スポーツはルールの中でゲームを楽しむものだが、ルールを守ることがスポーツの醍醐味ではない。サッカーの醍醐味はゴールの瞬間だが、手を使ってゴールを決めても楽しくない。チームプレーには制約もあるが、ルールを守り決まり事を守ることが、サッカーの楽しさではない。結局、スポーツをやりたい意思は、「ルールを守る」ことを超えたところにある。

企業が社会的責任を果たすのは、正しいことだが、それが目標では、あまりに目線が低すぎないか。どんなことであれ「やるべき」ラインは、「なしとげたいこと」のラインより、はるかに下に設定されている。「最低限のやるべきことを目指す」では、ワクワクもないし、「やってやろう」というチャレンジ意欲も湧かない。企業が生まれた原点である「自由な意思」に立ち戻ることが、不祥事はおろか、組織と事業が面白い方向に変わる契機になるのではないだろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?