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AIが知性の本質を問うように、VRは経験とは何かを問う

久しぶりに想像力が掻き立てられる本を読んだ。

VRについて以前から関心はあったものの、その関心が本格化することがなかったが、本書『VRは脳をどう変えるか?』を読んでその認識が変わった。「経験」とは何かを再考させてくれる本である。それは人工知能(AI)の登場で、そもそも知性の本質は何かを突きつけられたのと同じように、VR(バーチャル・リアリティ=仮想現実)は僕らに「経験すること」の意味を問い直してくれる。

人は自分で経験する量をはるかに上回る知識を得ている。それは情報の力による。僕らの先人がどのような歴史を築いてきたのかを書き残されたもので知る。遠く離れた国の生活ぶりを、雑誌や新聞を通して知る。南極探検の壮絶さや精密部品の製造現場など、我々は自ら経験することなく、メディアの力によって知識を得ることができる。

百聞は一見にしかず。しかし我々は多様なメディアによる膨大な情報から、自らの時間で経験することができない多くを学んでいるのは確かである。そこで登場した新しいメディアが、VRの技術である。

VRは過去にも一部実用化されてきた。それは特殊な映画であったりゲームであったりしたものの、本格的なメディア体験とは言い難かった。しかし、今日実現されつつある最新のVRは、過去のメディア体験を圧倒的に超える「没入感」があると著者は力説する。それがもっともらしく説得力を持つのは、著者が心理学者であるという面が大きい。

著者の関心は、本当の体験とバーチャルな体験の違いは何かにあるようだ。人が小説を読んで共感し涙を流すのは、あくまでバーチャルな体験にもかかわらず、人はそこまで本当の体験の如く内面に受け入れることが可能であることの証左でもある。そう考えると、我々はこれまでも多くのバーチャルな体験を、自らの想像力を用いて、自分の体験かのように受け入れてきたことになる。

今日のVR技術は、その没入感が、それこそ「半端ない」と著者が何度も繰り返す。本書では心理療法での効果、スポーツ選手のシミュレーション学習の成果、緩和治療における有効性や教育現場での実証例など、多様な現場での事例が紹介されている。これらは、僕などが想像していた、アダルトビデオや映画、ゲームの枠を遥かに超えていた。

もっとも興味深かったのは、第7章の「アバターは人間関係をいかに変えるか?」である。ここでは、VRを用いたビデオ会議の例を紹介している。僕は仕事でskypeやzoomなどの遠隔会議システムをよく使うが、フェイス・ツー・フェイスのコミュニケーションとの圧倒的な情報量の少なさを実感している。それは、普段は相手の言葉や表情だけではなく、視線の向け方や体の向きなどまで含め相手の考えを理解していたことを実感する機会でもある。つまり、相手の顔が見えて言葉が聞こえるだけでは、まだ物足りない。

本章を読むと、この自分のジレンマをよく理解してくれているかのように、アバターを用いることで克服するいくつかの事例が紹介されている。結局、実際には離れていてネットワークに繋がれているだけの相手と、どこまで実際に向き合っているかのような「体験」ができるか。これが問われているのだが、まさにVRの力の見せどころであろう。この技術が成熟するだけで、現在のリモートワークの範囲は飛躍的に広がり、人は仕事相手との物理的な距離から完全に自由になれるのではないかとさえ妄想する。

もちろん新しいツールは薬にも毒にもなる。著者が何度も強調する「圧倒的な没入感」を発揮するVRは、なおさら使い方を誤った際の代償は計り知れない。著者もその点から逃げず、本書では正面から向き合う。AI倫理がいま議論されているように、VRも今後、技術開発と並んで倫理の議論が求められる。新しい技術がバラ色の世界をもたらすほど単純ではない。人間の想像力を飛躍的に伸ばすツールなのか、あるいは想像力を退化させてしまうツールなのかもわからない。

その危険性を十分に理解したうえでも、本書を読んでVRの可能性が開かれる社会に期待したいと思う。それは、体験が人の可能性を広げてくれることを信じられるし、有限の時間で膨大な体験を積む世界を見たいという願望でもある。エンタメ系の技術だと思っていたVRが、人の可能性が広げる技術だと思えるようになり、ワクワク感溢れる読後感であった。






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