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「知りたい」を追い求める美しい生き方

「美しい生き方」というと、僕はこれまで2通りのイメージしかなかった。一つは自分のことより他人を優先するような生き方で、いわばマザー・テレサのような生涯を送る人だ。もう一つは、自分の筋や美学を貫く生き方であり、俳優の高倉健さんや岡本太郎氏などが思い浮かぶ。

それが『喜嶋先生の静かな世界』という小説を読んで、それらとは異なる「美しい生き方」を知ることとなった。小説の舞台は理系の大学と大学院。子どもの頃から科学的なものに興味があった主人公は、高校の授業にも飽き足らず、面倒な受験を経てようやく理系の大学に入学した。しかし、大学の授業は思っていたよりつまらなかった。教科書に書いてあることが語られるばかりで、かつて科学の神秘を想像してワクワクした経験が封印されたままだった。

こんな主人公の霧を晴らしたのが、喜嶋先生である。小説を紹介するうえでどこまで触れるかは迷いどころだが、主人公は喜嶋先生との出会いから、研究の面白さに魅了されていく。自分がやりたかったのは、勉強ではなく研究であった。研究とは、誰も明らかにしていないことを発見すること。新たな知を見つけることであり、すでに見出された知を学ぶこととは大きな違いがある。何を発見すべきかさえ誰かが教えてくれるのでなく、自分で決めなくてはならない。そうして設定したテーマを何年も追いかけても、真理に到達できる可能性はなんら保証されていない。そして発見されたとしても、その知は人類や社会にとってどのような意味があるのかさえわからない。

こういうリスクをすべて背負い込んでフロンティアに挑むのが研究である。主人公は、この研究者の真髄を喜嶋先生の後ろ姿から学ぶのだが、とにかく本書で描かれる喜嶋先生が魅力的だ。

容姿はどうやら、一般的に想像される理系研究者のように、着るものも髪型なども一切気を遣っていない。一日のほとんどを研究室で過ごし、自宅のアパートは寝に帰るだけ。本が散乱した自宅の万年床にたどり着くのはなかなか困難なほどだ。

生活のすべてを研究に集中する喜嶋先生の言葉は、一切のあいまいさと無駄がない。こんな喜嶋先生の言葉の中で印象的なのが、「研究には王道しかない」というものである。王道とは文字通り、行くべき道であり、それが歩きやすいか、近道かなどまったく関係ない。困難であろうと、先が見えないであろうと、通らなければならない道があると説く。かといって単なる堅物なわけではない。男性として喜嶋先生も恋をするのだが、このあたりは、真摯な研究者とのミスマッチからコミカルな面白さに溢れている。

傍から見ると研究者の日常は淡々と過ぎているかのように見える。しかし、誰もが到達したことのない行先を目指し、しかもそこに何もない可能性にひるむことなく、一歩一歩、道を切り開いていく。愚直でもなければ、巧妙なわけでもない。燃え滾るような強烈な欲望がないと決して進めない研究者の道を、著者は「静かな世界」と書名に託した。そう、この小説は、動機の熱量に反比例するかのように、日常の穏やかな営みが描かれているのだ。

科学的知見であろうと、ビジネスであろうと、日常の生活であろうと、人は知らなかった「新しいもの」の発見にワクワクし、心躍らせているのはないだろうか。偶然から出来上がったビジネスモデル、自分とは別人のような感性の持ち主に出会うこと、見たこともないような夕陽に出会うこと。

「知らなったことを知りたい」が人間の根源的な欲求の一つならば、それをもっとも純粋に追い求めているのが、研究者と呼ばれる人たちではないか。新たな知を生み出した研究者は時代を超えて賞賛されるが、すべての研究者がそうなるわけではない。それが得なのか、名誉なのか、自慢できることなのかは二の次。ピュアな欲求に従い、真摯にそのプロセスを歩もうとする生き方は美しい。『喜嶋先生の静かな世界』には、まさにそれが描かれている。
対象が何であれ「やりたいこと」を追い続ける美しさは、もっと社会で評価されていいはずだ。

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