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「人に迷惑をかける」から逃れられない

「人に迷惑をかけない」。この言葉は、子どもの頃から、ことあるごとに耳にする。お互いに人と人が生活するための、当然のルールでありマナーである。社会の一員となっていく子どもに、そう言い聞かせていくのは当然であり、やりたいこととわがままの違いを我々は学んでいくのである。

しかし、人に迷惑をかけない生き方などできるものだろうか。そもそも、こちらが「相手の迷惑にならないように」行動しているつもりでも、それで相手が迷惑をしていないかなど、確かめようがない。逆に、こちらが「よかれ」と思って行動することも、相手にとってありがた迷惑なこともよくあり、いわゆる「小さな親切、大きなお世話」現象だ。そして、この大きなお世話が厄介なのは、そのほとんどが、相手が迷惑であったことを聞かされることなく、本人は「小さな親切」を実行したという誤った経験を積み重ねることだ。

こう考えると、「人に迷惑をかけない人生」を自負することは、傲慢でウソっぽく映ってしまう。我々がせいぜいできることは、人に迷惑をかけないようにしたいと思いつつ、実際はどれだけ人に迷惑をかけていたり、助けてもらったりしているかを自問することしかない。

人に迷惑をかけるのはよくないことだが、一方で人は他人の助けなしに生きていけない。僕自身、旅行にいくと見も知らずの人にいつも助けられている。8月の東北旅行でも、町で紹介してもらった人に、夜にご自宅にお邪魔して夕食までご馳走になってしまうこともあった。財布をなくした時にいっしょになって、探してくれる人がいた。こちらの勝手な都合の旅なのだが、人さまにご迷惑をかけまくりであった。

確かに、人に迷惑をかけない生き方は、自己規律があり美しく、尊敬に値する。しかし開き直るわけではないが、どこかで人に迷惑をかけてしまう可能性を認める、「ごめんさない人生」もありではないだろうか。人は誰でも粗があり、完全な人はいない。欠点をなくす努力をするより、欠点を「ごめんなさい」して、自分の強みで、人や社会に貢献しようとする生き方である。

以前、ウォルト・ディズニーの評伝を読んだ。ミッキーマウスや、ディズニーランドを残したウォルトの生涯は、周囲の人との衝突の連続であった。同僚と揉め、取引先と揉め、多くの人が彼と袂を分かつ。最期は癌に侵され病院で息を引き取るのだが、死にたくないウォルトは最後の最後まで看護師さんに悪態をついていたようだ。

ウォルトは、周囲の人に迷惑をかけまくりの生涯を送った。近くに彼がいたら、さぞストレスを感じたかもしれない。しかし、それでも彼と一緒に働きたいという仲間が常にいた。そして、かけた迷惑の総量をはるかに凌駕する、クリエイティブを遺した。ディズニーのおかげで、世界でどれだけ多くの人が楽しむことができただろうか。歴史に残る偉人も、すべてがすべて完璧だったわけではない。

人に迷惑をかけてもいいとは言い切れないが、「ごめんなさい」で許される範囲もある。そして、どうしても人に迷惑をかけてしまうことから逃れられないなら、「ごめんなさい」しながら、自分の長所を発揮して社会に貢献する。みんなでこういう生き方を容認し合えるなら、きっと社会はもっとの伸び伸びし、面白いもの、楽しいものが生まれるのではないか。

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