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理屈で自分をごまかすことはできない

いまの時代、「グローバル化とデジタル化が進行する世界のなかで、少子高齢化が進む日本においては、・・・」というような書き出しの企画書は、誰からも反論されないであろう。だからと言って、誰もが納得して「そうだ!」と思わせる力のある文章とも言えない。

これは言葉選びなどを含めた表現の仕方の問題ではないと思う。むしろ、こういう表現が生まれた思考プロセスの問題ではないだろうか。得てして、理屈として正しいことでも、それがことを動かす力にはなりえないものである。

新しいことを企画する場合、何がいいかを考える。自分のやりたいことはもちろん、できること、成功しそうなことなど、人それぞれ考えるための要素は異なるが、いろんな可能性を考える。ああでもない、こうでもない、と。闇雲に考えてまとまらないと、よくあるセオリーや成功パターン、それに最近のトレンドなどを元に考えてみる。すると、何とか整合性のある企画書が出来上がったりするものである。

そうして出来上がった企画書などに、冒頭に例を出した文言などが登場しそうである(もちろん、上記の文言を使った文章のすべてがそうとは限らない)。リソースや時間軸、そして優位性なども見えてきてなかなかいい企画のように思える。人にも納得してもらえる理屈が通っている。しかし、何かつまらないと自分で感じる。どこかで見たようなアイデアに見えてくる。正しいとは思うけど、面白くない。人に話しをして異論が出ないとしても、相手の強いポジティブな反応にはつながらない。そして、何よりも問題なのが、理屈は通っていても、発案者である自分が実はしっくり来ていない感がぬぐえないのである。理屈以前に欠けている何かに対し、自分をごまかすことはできないものだ。

一方で、脈絡も分からずアイデアが出てくることがある。思いつきと紙一重だが、なんだかとてもワクワクするし確証らしきものも見える。本当に大丈夫なのかと思って、いくつかのネガティブなシナリオを考えてみても、それなりに行けそうに思える。それは妄想かもしれないが、「行けそう」という自信が揺るがない。もちろん新しいことは不確実性を伴うものなのだが、そこから生じる反論や無理解も跳ね飛ばすことができる。
こうやって生まれたアイデアはとても頑健だ。企画書の体裁で人に説明する際も、筋が通っているので、自信をもって伝えることができる。筋が通っているのは、自分の確たる自信が貫通しているからであり、それを論理的に話すことができる。いわば、直観で生まれたものだが、論理が通るのである。

理屈で考えたものは、人に説明できるかもしれないが、自分を騙すことはできない。自分が心から信じられるアイデアは、理屈や、セオリー、トレンドなどから得られることは少ない。むしろ、脈略もない直感から生まれたものではないだろうか。

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