自分でしか決められないもの――『モモ』を読んで

最近、ミヒャエル・エンデの本を続けて読んでいる。代表作の一つ『モモ』も読み直した。もはや説明不要だろうが、この本の内容は、主人公の女の子であるモモが時間泥棒と戦うファンタジー小説である。

本書が執筆された1973年は。まさに高度成長期を迎え、経済が急速に発展した時期である。電化製品や自動車、そして社会インフラも整い、人々の生活がどんどん便利になった時代であり、作者であるエンデは、経済成長によりますます豊かな暮らしが実現していく中で、時間に追われる社会を描いたのだ。
『モモ』誕生から40年、技術革新も相まって社会は圧倒的に便利になった。同時に「時間に追われる」感覚もますます増している。あらゆる電子機器が仕事のスピードを上げてくれたのにかかわらず、我々の仕事量は逆に増えており、過労死に至る悲劇も後を絶たない。生産性の向上が、人から自分の時間を増やしていない現実がある。

いま日本では、働き方改革とともに、生産性を上げて労働時間を少なくしようとする動きが顕著である。その議論の中では、少ない時間(インプット)で大きな成果(アウトプット)を出すことが求められている。

時間という資源は、人にとっても社会にとっても有限である。まさに「限られた」時間で、何をするかが求められているのが、いまの生産性の議論である。
ここで、社会が求める生産性の議論におけるアウトプットは、社会的価値、あるいは市場価値、経済価値で測定されうるものが対象になっている。『モモ』を読んで考え直したのは、我々は社会人として社会に価値を出すことを求められている一方で、自分にとって価値ある時間を生み出すことである。自分にとっての価値は、社会や他人のモノサシで測れるものではない。自分自身でも測定しにくく、実感としてつかみにくい。自分が感じることでしか、把握できないものであり、しかも他人や社会からの評価にさらされるものでない。
一日、家から一歩も出ずに誰とも話さない時間を愛する人もいる。一日中、詰め将棋を楽しむ人もいる。街に出て友達と過ごす時間が好きな人もいる。毎日同じリズムで生活して季節の微細な移り変わりを楽しむ人もいる。他人の見方とは無関係に、価値ある時間だと自分で思えるのなら、それはその人にとって珠玉の時間なのである。

自分にとっての価値ある時間は、定量的に知ることができない。自分以外の誰も理解できるものでもない。自分の内面と対話し、自分で感じることでしか、把握することができない。『モモ』の中では、「時間とはすなわち生活」という言葉が出てくるが、原文で「生活」は「Leben=Life」だそうだ。「時間とは人生そのもの」という意味を含んでいる。市場での評価にさらされる社会だからこそ、自分の人生における「大切なもの」を見失ってはいけない。

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岩佐 文夫

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