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儲けたい人も、社会の課題を解決したい人にも勧めたい一冊

最近、久しぶりに線を引きながら食い入るように読んだのが、『ビジネス経済学』という本だ。本書は、ビジネスの課題を経済学の理論やモデルを使って説明するものである。欧米のビジネススクールには、managerial economics という科目があり、日本語では「経営経済学」と訳されることもある。本書は、このmanagerial economicsの基本を丁寧に説明してくれる本である。

わずか3つのモデルで、どんなビジネスにも共通する原則を示す

経済学は市場というビジネスの主戦場のメカニズムを説明してくれる。そして、その市場で利益を上げるのがビジネスだが、市場という競争環境でどのような行動が利益につながるか、つまり競争戦略のメカニズムも解説してくれるのである。

これは、ビジネスに携わる全ての人に関わることであり、それが、これでもかというシンプルなモデルで紹介されているのが最大の魅力である。

著者である大林厚臣さん(慶応義塾大学ビジネススクール教授)も「まえがき」で書かれているが「良いモデルはシンプルである」。つまり、モデルとは具体的な事象を抽象レベルで表現したものであり、当てはまる具体的な事象が多ければ多いほど、そのモデルは汎用性があり、「良い」ものである。その意味で、本書は驚くほどシンプルである。

全体の構成は9章立て。1章から3章までが市場のメカニズムを解説し、4章から7章は、市場でどのようにすれば利益を出せるか、企業などのプレーヤーの視点で最適な行動を解説している。8章では事例を。そして9章では市場の限界を語っている。

これらの内容を、本書ではわずか3つのモデルで紹介し尽くしている。

最初に出てくる「取引モデル」は価格の高低を示す直線に、売り手と買い手が取引で得られる価値を示す2つの点があるだけの、実に単純なモデルである。このモデルから、1対1の相対取引を説明し、そこからn対nの市場のメカニズムまで一気通貫で解説する。そして、2つ目のモデルがおなじみの需要供給曲線なのだが、取引モデルからの繋がりが見事なほどわかりやすい。そして、この2つのモデルだけで市場メカニズムから市場での価格メカニズムも解明し終えるのだ。

6章の競争のメカニズムに入ると、「囚人のジレンマ」で使われるゲーム・マトリクスが登場する。これが本書で登場する3つ目のモデルであり、これで全てである。

本書はこの3つのモデルを理解するだけで、取引、市場、価格、競争などあらゆる業種のビジネスに応用できる理論が学べる。その応用範囲は、飲食店であろうと、製造メーカーであろうと、コンサルティング業であろうと、ネット上のプラットフォーム事業者あろうと通用する。フリーランスの人でプライシングに悩む人も、この取引メカニズムを学ぶだけで、自身の価格設定を見直すことができるし、サブスクリプションモデルを検討するネット企業は、本書で解説する「さまざまな規模のメリット」はどれほど、ビジネスモデルの構築に役立つか計り知れない。

もし読み手が、抽象と具象を往復させる思考が好きであれば、この本ほど、思考の往復運動が刺激させるものはない。抽象的な理論は、「難しい」と敬遠されることがあるが、これは残念な誤解だと思う。それが難しいと感じるのは、抽象的なものを整理されないままに提示された経験が多いからではないだろうか。考え抜かれた理論は、複雑に絡み合った事象から枝葉を削ぎ取り、幹だけが示してくれる。本書がまさにそれを体現していて、取引、利益、得られる価値、競争、優位性という概念を的確に説明し、それらの概念のつながりを簡潔に示してくれる。

例えば、取引における交渉についての記述では、

「交渉力を、自分に有利な取引条件を引き出す要因とすれば、それは大別して、自分に有利な交渉範囲を設定する要因と、交渉範囲の中で自分に有利な取引条件を得る能力に分けられる」(31頁)

という一文がある。

この文章では、ここでの交渉力を「自分に有利な取引条件を引き出す要因」と定義し、それは「有利な交渉範囲を設定する要因」と「有利な取引条件を得る能力」の2つがある、と分解している。これだけを理解することで、交渉におけるブラフや相見積もりなどの具体的な行動が網羅されていて、どこに属するかを理解できる。

また5章での規模のメリットの話では、「学習曲線効果」と「規模の経済」を紹介し、両者の違いを次のように解説してくれる。

「小規模の生産でも長く続けると累積生産量が大きくなり、大きな学習曲線効果を生む、いわばストックの概念である。それに対して規模の経済は、ある時点での生産規模が、その時点の生産性を上げるという意味で、フローの概念である」(125頁)

この文章で、規模のメリットでも両者の概念に違いがあることが一目瞭然である。

社会の課題を解決しようとする人にも読んでもらいたい理由

本書は、ビジネスで利益を大きくすることを志向する人だけではなく、社会の課題を解決したい人にも読んでもらいたい。社会課題を解決しようとしている人の中には、ビジネスに関する知識やスキルが不足していて、思うような成果を上がられていない人がいる。
事業とは利益を得ることが目的ではなく、継続的な活動によって、社会のニーズを満たすことである。継続性のためには、事業の安定が必要で、そのためには事業についての基本的な知識が必要だ。

本書のはじめにでは以下のように書かれている。


「事業をする目的は、もちろん利益だけではない。あらゆる経済活動は、最終的に誰かの幸福につながる。だからこそ多くの人が、事業に夢や使命を感じる。しかしその一方で、利益をあげなければ事業を続けられず、夢も使命も実現できなくなってしまう」(1頁)

これが著者の基本的なスタンスとなっている。本書では、市場での取引の中には、社会全体の価値を高めるものと低くしてしまうものが紹介されていて、その違いのメカニズムも、先の3つのモデルを使って簡潔に説明されている。

市場の原理、競争の原理を学ぶことは、どんな目的の事業者にとっても、社会で実現したいことがある人なら学ぶべき事項ではないだろうか。

そして9章は「企業の利益と社会の利益」というタイトルで、市場の限界とそれに対する処方箋が書かれている。社会全体にとって価値があることが、市場というメカニズムを使ってどこまで実現できるのか、あるいは実現できないのか。この問いへの答えが見事であり、実際にこれらに従事している人の具体的な活動の数々を抽象レベルで解説してくれる。つまり本書は、市場経済の可能性から、市場経済が機能しない場合の条件も明確に示してくれるのだ。

本書の最後は、次の文章で締めくくられる。


「本書は経済学の視点から、利益をあげるための方法を理詰めで書いている。本書を参考にすることで、事業の前提条件をクリアする方法のヒントをつかめると思う。それを土台に、読者の最終目的である夢や使命を実現してほしい。夢と使命は必ずしも理詰めで得られるものではないが、事業が人々から支援され、成功し続けるために欠かせないものである」(327頁)

そう経済の知識とは、どんな人にとっても夢や使命を実現させるのに役立つのだ。

追記:本書をお勧めしたいもう一つの理由

文章は書き手や受け手の好みで評価されていいものだと思うので、「いい文章」の定義は難しい。僕自身が理想的だと考える文章とは「伝えたいことを、一切の無駄もなく、一切の不足もなく、簡潔に伝える文章」である。その意味で、この本の著者である大林さんの文章は理想的である。

まず語彙の使い方が適切である。しかも容易に理解できる言葉が並ぶ。一つ一つの言葉を相当吟味して使っているので、誤解がない。何を指しているか不明な代名詞が一切ない。複数の意味が取れる表現がないのだ。そして、最低限の接続詞を効果的に使い、論理の流れを伝えてくれる。読み進めると新たな疑問が出てくるが、すぐにその後に答えてくれる。


難しいことを易しく伝えるためには、相当深い理解が伴っていないと実現しない。大林先生の文章は、深い理解と相当の思考を重ねた後に生まれたものであるに違いない。本書でモデルはシンプルなものがいいと書かれているが、文章も、考え抜けば抜くほどシンプルになる。本書はその典型例ではないか。

もちろん、読ませる文章、読んで面白いと感じる文章の条件は無数にある。しかし、その土台とも言える「簡潔に伝える」文章を学ぶ目的でも、本書を読むことで参考になると思う。


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