自分の価値は、他人の評価で変わらない。

運のいい人と悪い人の違い

世の中には運のいい人と悪い人がいる。この違いは、星の巡り合わせではなく、その人の気持ちの持ちようではないかと思っている。

運のいい人は「幸いなことに、助けてくれる人が現れて」とか「ちょうどのその頃に、こういうポストを任されて」などと、自分の人生の巡り合わせの「偶然」を「運が良く」と口にする。

運の悪い人は「上司に恵まれなくて」とか「玉突き人事の余波が来て」と、自分の人生に起こった不運を巡り合わせの悪さとして語る。そして「運悪く」と付け加える。

他人から見たら同じような状況に置かれている人でも、自分のことを「運がいい」と振り返る人と「運が悪い」と振り返る人がいる。人が羨むような学歴と職歴を持ちながら、「運が悪く、部長までしか行けなかった」という人もいれば、「運が良く、部長にさせてもらった」という人がいる。

これは明らかに、自分に対する自分の評価と他者の評価のズレである。自分の評価の方が高い人は「運が悪かった」といい、自分の評価より他者の評価が高かった人は「運が良かった」という。

運が悪いと言う人は、「自分はもっと他人から評価されて然るべき」と考えているのではないだろうか。それなりの努力もした。実績も積み、実力も備えた。そんな自信がある。だから自分の考える評価より、他者の評価が低いと「運が悪い」と感じるのではないか。

こう考えると、自分に自信を持つことが不幸の始まりなのかもしれない。謙遜ではなく本当に自分に自信の持てない人が、自分以上の評価を受けると「運がいい」人生となる。下手に、自分に自信を持つことは避けるべきなのか。

「運が悪い」という人は自分に自信があるのか

そもそも、運の良さ・悪さ以前に、他者からの評価に惑わされることが不幸である。自分の評価と他者の評価にズレがあったとしても、自分に本当の自信があれば気にしないはずである。一喜一憂するのは、自分の価値を、他者の評価なしには確信できないからではないか。自分を信じるというのはこういうことである。

自分を信じられる人は、他者の評価を気にしない。先日出たセミナーでは、「SNSで『いいね』の数を気にするようなスケベ根性」という話があった。「インスタ映え」などに代表されるように、SNSはどれだけ共感されたかが可視化され、それを競う風潮がある。他人の評価が気になると、エゴサーチをするし、SNSでの他人の評価が気になる。

ネットの登場で他者の評価が溢れ出ている社会になったことも不幸の一環かもしれない。気にしていなくても、ネットでググればすぐにわかる時代、気にしない状態を続けることが難しい。

とはいえ、本当の自信とは、他者の評価が得られなくても揺るがないものである。人は誰しもそれほど強い存在ではないので、自分の自信も揺らいでしまう。だからこそ、他者との共感し合うことで安心し、他人からの承認欲求を求める。これらは隠しようのない事実だとしても、共感や他人からの承認を求めている自分の状態には、意識しておいた方がいい。きっと何か、自分の中に足りていないものがある。

他人からの承認や共感が得られないと不安になるとすれば、それは、自分の中に何か満たされていないものがある。これは、SNSの「いいね」をいくつ獲得したところで解消されないだろう。本物の自信とは、他人からの共感や承認がなくても揺るがないものをさす。

市場という評価社会を生きるのは

他者の評価を気にしなくてもいい、自分の価値が揺るがなければ。とはいえ、社会で生きていくには、社会で評価されることが必要になる。市場はまさに評価システムであり、自己評価が高くても、市場で評価されなければ認められない。

画家のゴッホの評価は、彼の死後に高まったものであり、ゴッホ自身は不遇の生涯を過ごした。不遇であったが、ゴッホが不幸な生涯を送ったかどうかは、本人しかわからない。とはいえ、このゴッホの例を引き合いにして、自分の価値を信じることを説くのは極端か。

思い出すのが、『考具』という本に書かれていた一節である。広告会社に勤務する加藤昌治さんが書かれた同書は、クリエイターの思考法をまとめたものだが、その中に「企画はわがままと思いやり」とある。「わがまま」とは、企画する人が面白いと信じられるものを思い切り突き詰めることであり、「思いやり」とは、そのわがままを人に受け取りやすように届けること。大事なことは、「わがまま」が先で「思いやり」が後、ということである。「わがまま」のない企画は迎合的なものになり誰の心にも響かない。ただ「わがまま」だけでは届かないからこそ、「思いやり」で想像力を膨らませて人に届きやすいようにする。

この「わがまま」の源泉が、自分の価値を信じられることではないか。その価値は、相対的に決まるものではなく、独自の物差しから生まれるものであり、だからこそ世界には多様なものが生まれ、ユニークなものが高く評価される。独自性とはわがままであり、自分を信じられる人からしか生まれないのである。

奇しくも、最近亡くなられた内田裕也さんや萩原健一さんも、他者評価とは無縁の独自の人生を生きた人だ。そのアウトローな生き方に、時には多くの人が眉をひそめ、社会からバッシングを受けることもあったが、一方で多くの人を惹きつけた。稀有なその存在は、誰かが代わりになれるものではない。だからこそ、人は寂しさを覚えるし、そんな唯一無二な生き方に憧れる。きっと、他人の評価よりも自分の価値を信じられた人なのであろう。

自分を信じる人は、「めでたい人」「ナルシスト」と言われることも多い。それでも、他人の評価に一喜一憂するより、はるかにストレスのない自由な生き方ができるに違いない。

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