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居場所とは、受け入れられる場所である。

ハノイに住むようになって2週間目である。わずか3か月の滞在予定なので、もう6分の1が過ぎようとしている。

最初の1週目は、生活の基盤を固めることに追われた。まずはアパートメント探し。不動産屋さんにいくつか内覧をさせてもらい、その中から気に入ったアパートメントと契約できたが、入居はこちらに来て4日目からであった。アパートメントには、家具や家電用品、そして食器類など一通りそろっている。とはいえ、タオルやマットなどは必要だし、洗剤やシャンプー、調味料なども一通り揃えなければならない。数日は、近所のスーパーや市街にある大型スーパーなどにも繰り出しての、買い出しが続いた。

そして2週目に入り、この異国での生活が落ち着き始めた。朝起きる時間や寝る時間、食事をする時間も決まって来て、仕事も決まった時間に集中してできるようになってきた。さらに英語学校に通うようになり、一日のリズムが出来上がってきたのだ。移動する導線も引かれつつある。買い物にいくスーパー、パン屋、カフェ、散歩するルートなどなどまだまだ開拓中だが、いまの時点で「いつものあそこ」ができつつある。
つまり、時間の使い方や訪れる場所が安定してきたのだ。

それにも増して大きいのが、顔見知りの人が増えたことである。
アパートメントには、週3回、ハウスキーパーさんが入ってきて掃除と洗濯、ゴミの片づけや食器洗いまでしてくれる。日本でこういうサービスと無縁だったので最初は慣れなかったが、ハウスキーパーさんともベトナム語で簡単な挨拶できるようになってきた。アパートの玄関には守衛さんが常駐している。この人も名前を憶え、外出する際、帰宅の際にいつも挨拶すると笑顔で返してくれる。

また、自宅はハノイの西湖の湖畔で僕は毎朝、湖畔沿いに散歩に出かけ、歩道にある路上カフェで蓮のお茶を飲むようになった。すると、いつの間にかカフェのおばさんが顔を覚えてくれて、街で会っても手を振ってくれる。先日行ったカフェのイギリス人オーナーも、店の前を通るたびに会釈を返してくれる。さっきは、通っている英語学校で一緒のクラスのスペイン人が、自転車で通りがかりに「ハ~~イ!」と。思えば、東京に住んでいる時よりも、近所に多くの顔見知りの人がいて挨拶しているような気がする。

つまり、生活が落ち着いてきた大きな理由は、知らない人の中に入った不安定感が、知り合いの中にいる安心感に変わりつつあるのだ。
日本にいると、そこにいる人が日本人というだけで安心感を得られていたような気がする。そのため、何度も見たことのある人であっても、さして挨拶もしなかったし、お互い見て見ぬふりをしていて、それが干渉し合わないマナーのようなものにさえ思っていた。そもそも、自分を取り囲むコミュニティが、仕事をベースに出来上がっているので、近所づきあいの必要性をあまり感じていなかった。

僕はいまハノイにいても、東京とつながって仕事をしているし、東京の知人とも連絡を取り合っているし、フェイスブックなどで知人とつながっている。ネットのおかげでどこにいても人とつながれることは素晴らしいと思う一方で、日常の場に顔見知りの人がいることの価値にあらためて気づいた。

人は親しい人と一緒に過ごしたいものだし、気の合う友達の価値は絶大である。しかし、もっと根源的なところで、相手がどんな人であろうと、顔を見れば挨拶する相手がいることで自分がその社会に受け入れられていると感じられる。居場所とは、受け入れられる場所なのである。僕はこのハノイでは何者でもない。ベトナムに関係があってここに住んでいるわけでもない。何かができる人でもなければ、この国のために何かをしているわけでもない。ただここにいるだめの存在。挨拶や会釈には、そういう人にも居場所を与えてくれる力がある。

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