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フレンドシップ

突然ですが私は友達の多い方ではないです。
特に女友達となると、もう絶望的。
そんな私でも、気のおけない友人というのがいます。
大学2年の初夏ごろからドイツ語のクラスが一緒になり、はじめは教室の向こう側とこちら側、ただのクラスメートでした。それが気づいたら5年以上の付き合いになっています。

そんな彼女会う時は、赤ワインを、ボトルであけるのがお決まり。二人してドライでヘヴィなフルボディが好きなので、それをこれまた癖のきつめのチーズと楽しみつつ、お互いの共通の生きがいである旅行の話。自分の行った国で感じたこと考えたことの発表をして、大体言語の話に脱線します。やれ日本人の性格には絶対ドイツ語が合ってるとか、そんなことよりむきむきのスウェーデン人の喋るスウェーデン語の音感が超絶可愛いぞ、そうなのか、とか。
これまた、お互いにいろんな言語をつまみ食いするのがもはやライフワークなのです。

彼女はこの夏休みにバルト三国、私は中央アジアとジョージアに行ってきたので、今回は主にソビエト圏についてあれやこれやと6時間ほど話し合いました。といっても、別に生産性はないし、政治家になりたいわけでも或いはその知識を活かした職につきたいわけでもありません。
ただ、日本は、ー少なくとも私たちの周りの多くは、ー 「おしゃべり」の内容としてそれを求めている人があまりに少なすぎる、と感じます。それは「議論」と捉えられるし、小難しい、あるいは自分が頭が良いんだとひけらかしていると取る人も少なくありません。人付き合いが苦手だったのは、そんなところもあるかも知れません。

観察をしていると大多数の人は、互いの共通の知人、あるいは芸能人の近況や雑観、例えば誰々はこうだったよね、そういえば誰々と別れたらしい、とかー を「おしゃべり」として話すことを好んでいるように思います。後は、自分の職場の人間関係のぐちとか。
多分そうすることで、お互いの認識の共有化をして、共感を与え与えられているのだろうと思います。
でもそれって、結局お互いを取り巻く「環境」の話で、その人自身を何も出してないじゃないか、と私たちは思ってしまうのです。その愚痴、Twitterの鍵垢にでも流せばそれでスッキリしない?と。
今は直接会わなくても、リアルタイムでコミュニケーションが簡単に取れます。ツールも、やりとりを媒介するメディアも多種多様です。
そんな時代に、わざわざ時間とお金と労力といういろんなエネルギーを費やしてオフラインで会うのだから、その人と、その時、顔を見て話す形でないとできないことを楽しみたい。

この認識を共有できる友人を持てたことは、本当にラッキィだと思っています。
これで私か彼女が男だったら、間違いなく今頃事実婚をしているはずなんですが・・・
その辺が私たちの惜しいところです。


ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!