『良いもの』がくれるしあわせ

私の持ち物は書籍を除けば、「おさがり」が本当に多く、文具は母方の祖父から、洋服は伯母や祖母の若いころのものをユニクロと組み合わせて着たりする。

仕事でお客様に手紙を書くときは、祖父から譲ってもらったSHEAFFERの万年筆を使っている。Sterling silverという、70年代ごろ発売され、当時人気のデザインだったそうだ(お客様から聞いた)。SHEAFFERで似たペン先のものを検索してみたら、3万くらいの価格帯だった。
譲り受けたときペン先が曲がっていて使えなかったが、近所に万年筆修理屋さんがいて、綺麗に直してもらった。書き心地は上々である。

一番の古株だと、祖母が20代(!)の頃買ったというグレインチェックのオーバーコートだろう。結婚後太ってしまい着られなくなってしまったけれど、生地が良いものだから、と50年以上しまいっぱなしだったという、真性の『こやし』である。
しかしこのコート、毎年毎年、会う人会う人、男女を問わず「素敵なコート」「おしゃれだね」と褒められまくるのである。今やすっかり私の冬の鉄板アイテム、トップエース選手だ。

良いものはそれなりに値が張る。

私の持論である。
良いものであれば、材料や工程、デザインなど必ずどこかしらに手間やコストがかかっている。そんなの私を含めたエンドユーザーは詳細を知る由もないけれど、使えばやっぱり違う。万年筆ならば書き心地、持った感覚、エトセトラ。何より、長く使える。現に長く使えているし、長く使っていなくてもメンテナンスすればまた使える。使えるように、メーカーであったり町の修理屋さんであったり、サポート体制もある程度整っている。

良いものがそこそこの量産品より値段が張るのは、至極当然の話だ。
それを「高い」と感じるか。
私はこの「高い」という感想にも二種類あると思っている。
『理解ができない値段』という意味での「高い」か、
『自分の財布事情からみて厳しい』という意味での「高い」か。

前者であれば、それは『自分にとっては必要のないもの』ということだろう。であれば、その人にとっての『良いもの』ではないのだろう。
後者であれば、そのものの良さにその時点で取りつかれているんだと思う。「良いけど、高くて今は買えない」であれば、中途半端な価格の類似商品に寄り道しない方がいいだろう。

どうして20代の小娘(?)の分際でこんな偉そうなことをいうかというと、そういう大きな買い物を、つい最近したからだ。ちなみにモノはカメラ。三年我慢した甲斐があった。余談だがその夜は嬉しすぎて枕元に置いて寝た。今は毎日持ち出すのが楽しくて仕方ない。妥協しなくてよかった、としみじみ思う。このカメラは完全マニュアルなので、ボディは分からないがレンズはずっと使える。『良いもの』の素晴らしさの一つだ。

けれど金額の高いものだったらなんでもいいわけではない

いたずらになんでもブランドものだったらいいだろう、高ければなんでもいいだろうという発想でものを選んでいる人の考え方は、私には合わない。
ニーチェの言葉ではないが、私たちがモノを選ぶとき、モノもまた私たちを審美しているのだ。
ブランド物を身に着けているのになんとなくかっこ悪い人、なんとなくいやらしい感じになっている人というのを時々見かけるが、あれはエルメスにしろ何にしろ、「良いものだ」と思って買っているのではなく、「エルメスだから」「バーキンだから」という理由で持っているからだろう、と考察してる。「インスタ映えする写真のために旅行に行く」に感覚は近いかもしれない。
「ブランドの威を借るキツネ」になってはせっかくのバッグももったいない。

「おばさんになっても使うかな」を考えて買い物をしている

良いものを持つ、それは長い目で見て出費を抑えることにもつながる。
私でいけば自分で10万20万の支出をすることなく上質なコートや革靴を手に入れることができた。(ついでに浮いた分をカメラ貯金に回せた。)
私がきちんと手入れをすればこのモノたちも、私が使わなくなった時誰かに譲ることだって不可能ではないだろう。

幸運にも私は割と若い時分にそれに気づかされたので、買い物をするときはつい、「長く使えるか」「おばさんになってもっていてもイタくないか」を考えて判断してしまう。
まあ、そんな思考回路なのでどうしても、20代のぴちぴち感が私からは醸されないようで…もうあきらめきっているが、きゃぴきゃぴした人生もそれはそれでありだったのかな、なんて。

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!