「愛されたい」に隠れた誰か


「愛されたいなぁ」と、ぼんやり考えるようになったのは、覚えている限りでは中、高校生くらいから。
当時私は、とにかく毎日がつらくて苦しくて仕方なかった。自分なんて、消えてしまえばいい。こんなダメな奴。そう思っていた。
帰り道、自分と同い年くらいの男の子と女の子たちが、親しげに歩いているのをよく見かけた。
「恋人がいるひとって、幸せそうだなぁ。自分の好きな人に好きと思われて。いいなぁ・・・」
思春期を女子校で過ごしたので、恋愛というものは遠い世界のおとぎ話みたいな存在だった。私は、いつしか『彼氏がいること』≒『愛されること』へ淡いあこがれを抱き、苦しくなると「ああ、愛されたい。愛されたいなぁ」と部屋でしくしく泣いた。

別に、全く愛されていなかったわけじゃないだろう。「愛されてないわけないでしょ、貴方。愛されてなかったら生きてないわよ今」と怒り気味に母親に返されたのを思い出す。確かにその通りだ。でも、このむなしさって、なんだろう。きっと、『彼氏』っていう存在が、埋めてくれるんだ。そう思って、疑わなかった。

貴方が愛されたいのは、だれ?

今ならわかる。私が本当に愛されたかったのは、「私自身」である、と。
大学生になって、何度かそういうお声がけはありがたいことにあった。少しだけ、お付き合いした相手もいる。けれどどれも、長くは続かなかった。
私から、お別れをした。みんな悪い人では、全然なかった。
けれど、その人が好きなのが『私』であるというよりは、『私を隣に連れて歩く彼自身』である、と感じられたのだった。「君なら、僕を甘やかしてくれると思った。君はしっかりしていて強いから」と、六つばかり年上の博士課程の先輩に言われたのを思い出す。
それは、そっくりそのまま、私の片思いにも言えることだった。私は、本当にその人が好きだったのか?私は、『この人が彼氏なら、私の心は満たされる』と、思ってはいなかったろうか?

私は、私を否定し続ける私自身に、ずっと苦しんできた。ミスや間違い、ちょっとした忘れ物をした時でさえ、「お前はダメだ」「生きている価値がない」「死んでしまえ」とまでよく思った。(よくよく気をつけないと、それは今でも顔をだす)

恋人、というのは、こんなダメな私でも受け入れて、「大丈夫だよ」といってくれるんだ。許されたい。なぐさめて欲しい、抱きしめて、よしよし、怖くないよって、してもらいたい。

賢い方はお気づきだろう。この願望の中に一度たりとも「好き」という言葉が出て来なかったことを。私が一切、相手のパーソナリティを求めていなかったことを。

告白されてもピンと来ない。片思いは、成就した試しがない。「家族に愛されているでしょう」という至極真っ当な回答が腑に落ちない。
それは「そもそも私が、私に好かれていないから」「私が、私を愛していないから」。これに気づくのに、本当に時間がかかった。そこから、「自分を受け入れること、素直になること」「自分を好きになること」を実践するのに更に年月を要した。この春をすぎてようやく、である。
まだここ一、二ヶ月のことなのだ。皮肉にも祖母のがんが見つかったのがきっかけだった。

心の声をちゃんと聞く

それまで元気だった祖母に代わって家事と仕事、伯母の泣き言祖母のご機嫌取り、加えてすっとぼけな(※加齢による)祖父の生活指導。一生懸命やっても報われない方が多いし、そのくせ説教とお小言は一挙手一投足に細かくつく。
自分くらい自分を思い切り褒めて、甘やかしてやらないと、もうやってられなくなってしまった。そうやって、自分に対する気持ちが優しくなって、自分を愛せるように、自分から愛されるように、少しずつ、なってきていると思う。コツは『自分の心の声と体の声をちゃんと聞いて、素直に従うこと』。これは、大学の優秀な同期男子の受け売り。

この『耳を傾けて、尊重する』行為が、自分をいたわる、つまり『愛する』ことだったのかも、と涼しい夜風に心地よさを感じて、思った。

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!