すごい人ほど、謙虚で、素直だ。

会社の同期に、一つ年下の男の子がいる。勉強家で、周りの人も彼を「できる人」「頼れる」だと思っている。けれど、一方で「偉そうだ」と快く思っていない人もいる。

どうも彼は、自分を自分で蔑む、要は「いや、俺なんて底辺だから」とか「できないやつだから」という割に、「これはこうするべきだ」「この技術はこうでこうで」と自分の意見で周りを引っ張りたがる。どうも、「自分を下げる」ことと「知識をひけらかす」ことが自分の価値やプライドを維持できると思ってやっているようなのだ。
自分を下げる割に、「俺は今こんなことを勉強してる」「これでこういうことやっている」と周りや私に会うたびに丁寧に報告してくれる。
こんな書き方をしたらまるで私が彼をとても嫌っているみたいに思えるかもしれないが、彼は決して悪い人ではないし、嫌ってもいない。
けれど、気分がいいものではない。みんながもっと現場で勉強したいのに任されるのは作業が多い、みたいな話をしてる時、「え、俺の現場では…」と自分の話をしだす。この頃気づいたのだが、多分もうほぼ無意識だ。それで、「いいなぁ」「すごいなぁ」とため息をつかれることで、自尊心を満たしてるんじゃないか、そんな気がする。

学生時代の頃は、周りが賢い人ばかりだった。
彼らを思い出して気づくのは、みんな自分の研究に熱心で、どんなにすごい成果をあげていても自分からそれを周りに披露していなかったこと。(多分、追い求めることそのことに価値を見出していたので、周りに自慢することなんてこれっぽっちも考えちゃいなかったんだろう)
そんなにすごい人たちだったのに、みんな驚くほど素直で、謙虚で、優しかった。私は学生時代外国語を二つ、ドイツ語とフランス語とっていたが、脳科学の研究をしていた同期は、「すごいなあ、俺にはできないよ」と屈託無く言ってくれたのだ。本当に不思議な心地がした。誰一人威張っていなかった。
私はプロダクトデザインなどは履修していなかったが、3Dプリンタやレーザカッタを使ってみたいな、と思い、デザイン専攻の同期に相談したら「いいね、全然教えるよ!」と、データの作り方から機材の使い方まで教えてくれた。
慣れてきた頃、自分一人で作ったものを「どうかな」と見せたら、「いい、面白いね!」と私の作ったもののいいところや面白いと思ったところをいくつも挙げてくれた。彼女からしたら、私の作ったものなんて子供の工作レベルだったに違いないのに、あんなに褒められるとは思わなかった。大学には、そういうお互いに高め合う雰囲気があった。そして、それがどれほど貴重で希少だったかということも、出て行ってから気づいた。

私はラッキィだった。本当にすごい人たちは、多くを語らない。それを知ることができたから。
それこそ昔は、先ほどの彼のような人がすごいんだ、と無意識に思っていた。「なんかいけ好かないような気がするけれど、そんなにものを知っているなら、敵わないなぁ」と。
見えるものや聞こえるもの、つまり与えられる情報を鵜呑みにしてその人を計ろうとすると、大きさを見誤ることもある。静かに、引いた視点で見ると、それほどでもなさそうだ、ということは往往にしてある。

大体、知識の習得の速度や範囲なんて個人差があって然るべきなのだ。量が多いか質が高いか、そのどちらに重きを置くかさえ、人によって違う。

私は彼にはいつも、「へぇ、そうなんだねぇ」と相槌だけうつ。本当に話を聞きたい人には質問で返すが、彼は相槌だけでどんどん勝手に話してくれる。まだまだ少年なんだなぁ、とおおらかに聞き流している。

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!