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『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ/くぼたのぞみ訳

 ナイジェリア出身の作家、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェのTED Talksをまとめた「男も女もみんなフェミニストでなきゃ」において、もっとも印象的なのは、彼女がはじめて「フェミニスト」と呼ばれたときのエピソードだ。

 14歳くらいの頃、子ども時代のいちばんの親友オコロマと、彼女は喧嘩腰の議論をする。内容はもう思い出せないが、白熱して言い募るうち、彼はじっと彼女を見て「あのさ、おまえってフェミニストだよな」といった。もちろん褒めているのではない。「フェミニスト」がなんなのか彼女はよく知らなかったけれど、まるで「おまえはテロリズムの支持者だ」というような口調だったので、言外に含まれる意味を察した。スピーチはこの象徴的な出来事からはじまる。

 フェミニストを自称してからテロリスト呼ばわりされることがたびたびあったので、思わず「ああ…」とつぶやく。性差別をないことにしたい「ふつう」の人々は、フェミ二ストをテロリストのように恐れている(あるいは恐れるふりをする)日常で起こるさまざまな差別や抑圧、親しい人々から向けられる漠然とした敵意や無理解を、彼女はユーモアを交えながら次々と語っていくが、それはわたしにとっても身近な話しで、日本で暮らす女性たちの多くが経験することだった。 

 フェミニストを自称したり、フェミズムやジェンダーに関することを話題にしたり、性差別や性暴力に対して抵抗や抗議や問題提起をすると、理解を得られないばかりか、非難されたり、面倒くさがられたり、茶化されたりして、ときには家族や友人や恋人にまで傷つけられる。セクハラやレイプの被害に遭った女性が、身内から心ない言葉を浴びせられるのもよくあることだ。ナイジェリアの大学で集団レイプがあったときも「確かにレイプは悪いけれど、一人の女の子が4人の男の子とひとつの部屋でなにをしていたの?」という反応がほとんどだったらしい。

 男は外に出れば七人の敵がいるというけれど、女はうちにも外にも無数の敵がいる。自分の内面にさえもそれは潜んでいる。ナイジェリアでも同じで、これは女性が抱える世界共通の問題なのだとわかる。フェミニズムやフェミニストに対する反応もほんとうに似通っていて、ジェンダーについて話す彼女にある黒人男性は「なぜ人間としてでなく女性として語るのか」と問うたという。

 彼女が北アフリカで経験した差別はわたしたちもよく知るものだ。男子だけが学級委員になれる暗黙のルール。女性がチップを渡しているのになぜか連れの男性へお礼をいう駐車係。レストランで男性にだけ挨拶をするウェイター。女性の意見は無視するのに似たような男性の意見は尊重する上司。男性を怖がらせないために身の程をわきまえて自分を小さく見せましょうというという教育。さもなくば愛されない、結婚できないという脅迫。愛されない、結婚できない女は不幸だという呪い。

 長じて彼女は作家、そしてフェミニストになるが、DV加害者を小説に出せば「君の小説はフェミニズム系だとみんながいっている。でも、自分をフェミニストだと絶対にいわない方がいい」と忠告され、同郷の女性からも「フェミニズムは非アフリカ的で、西欧の書物から影響を受けたあなたがフェミニストを自称しているだけだ」と批判されてしまう。「自分をフェミニストと呼ぶのはあなたが男嫌いってことだ」「いまじゃ女性にとってはなにもかも申し分ないじゃないか」と親しい友人もいう。

 そこで彼女は「男嫌いではないハッピーなアフリカ的フェミニスト」と名乗ることにするのだけれど、もちろんこれは皮肉を込めた冗談だ。「フェミニスト」とは、それほどネガティブな重荷を背負わされた言葉なのだ。しかし、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェはその重圧をさらりとかわし、しなやかに軽やかにフェミズムを体現する。そのさまは実に清々しく、そして眩しい。

 「文化が人々や民族を作るわけではありません。人々や民族が文化を作るのです。もしも女性に十全な人間性を認めないのがわたしたちの文化だというのが本当なら、わたしたちは女性に十全な人間性を認めることを自文化としなければなりませんし、それは可能です」と彼女はいう。

 フェミ二ズムやジェンダーに関する本を少しずつ読んでいこうと思ったときに、まずこれを手に取ったのは正解だった。スピーチを文章化したものなのでボリュームは100ページもないし、明快な語り口でするすると読めてしまう。聞き手をリラックスさせる穏やかな話し方からはオープンな人柄が伝わってくる。これほどわかりやすく、とっつきやすいフェミニズムの本もないのではないか。これならフェミニズムに抵抗を示していた人たちにも受け入れられるだろう。バランス感覚に優れた、ひろく愛されるフェミニズムだと思う。

 ただ、わたしはみんながみんな彼女のように、しなやかで軽やかでなくてもいいと思っている。これまで通り憎まれてもいい。彼女やこの本を「権利を声高に叫ぶフェミストとは違う」とか「堅苦しいフェミニズムではない」とかそんなふうにいっている人もいて、その受け止められ方に多少の危うさを感じた。

 彼女の持つ強さや朗らかさ、バランス感覚、柔軟性は尊く、素晴らしいものだけれど、マグマのような怒りに癒されることもあるし(チママンダ・ンゴズィ・アディーチェも、みんなもっと怒るべきだと呼び掛けている)みっともなくあがく姿に勇気づけられることもある。


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