嫌いなものが多いということは自分の可能性を狭めるということだ

その存在を認めると自分の根幹が揺らぐようで受け入れることができない、何となく嫌いなもの、などは誰にでもあると思うのだけれど、わたしの場合それは「東京」だった。
10代後半から20代前半にかけて、進学や就職などで親しいひとや嫌いなひとが立て続けに上京するのに何となく反発して、いや、別に博多でいいし、のように地元に固執していた。
現在は必要があって東京に住んで東京で働いている。東京でできて博多でできないことは無いと考えていたのだけれど、思いの外、東京ならではというか集権地特有の仕事がいろいろを考える契機になったので来ることにしてとても良かったと思う。
話は全く変わるのだけれど、わたしの友人がさいきん、イメチェンをはかりつつある。ずっとカジュアルな格好をしてあまり化粧っ気の無かったのが占い師から「もっとフェミニンな格好を」との御宣託をうけたとのことで、積極的に実践していて楽しそうでほほえましい。
わたしは占いなどはやらないのだけれど、他にも占いをきっかけに転職を決めた知人がいて、それが本人の望む方向に背中を押してもらったり新しいことをはじめるきっかけになるのは良いことだと思うのだ。
先述の友人と食事をしていた折に「20代のときは女性らしさみたいなものを全否定していたけどもっと早くやれば良かった」のようなことを話していて、確かにもっと早く知ることができたらもっと早くにそのよろこびを享受できたのかもしれないが、来年よりは今年、明日よりは今日、一日でも早ければそれはそれで良いはずだ。たとえ遅くてもはじめないよりはずっと価値のあることだと思う。
わたしももう少し早ければな、もう少し若かったら良かったのかな、と考えることもある。ただし、もしあと3年5年早かったとして、いまと同じように考えていられたかわからないし、気付くことができなかった可能性もある。いまだからこそこのように考えられているのかもしれないから、タイミングはこれで良かったのだろうし、これからさらに充実させていけば良いのだと思う。関連することについて勉強したり資格を取ったりすることがとても楽しい。
それだから嫌いなものにこそ向き合わなければならないとまでは思わないが、何かにつけ嫌いなものや合わないような気がするものが自分を良い方向に導く可能性があるのでいろいろを否定しないように気を付けたい。そういう風に考えられるようになったことも良かったことだと思う。

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