曖昧なものを曖昧なままにしておける思考の強度

先の小泉政権における郵政解散のあたりから漠然と考えていたことが確信に変わりつつある。昨今のひとは物事に白黒つけすぎる傾向にある。「責任の所在」が追及されるようになったことと連動しているかもしれない。物事は白と黒だけではなく、灰色や透明であることも往々にしてあるのだけれど、白か黒でなければゆるされない雰囲気がある。
先日の衆院選(2014年12月)、自民党圧勝と共産党大躍進でも同じことを感じた。
何でも極端に考えているひとが増えているように思う。
物事を白黒つけたがるというのはつまり、曖昧なままにしておけないということだ。曖昧なままにするということはそれが自分にとって有害であるか無害であるかの判断を保留にするということで、たいへんに不安なことだ。昨今のひとはその不安に対してあまりにも弱くなっている気がする。
トイレの花子さんなどがわかり易い。学校のトイレに出没する幽霊として恐れられていたものが「花子さん」などと名付けられ、キャッチーな存在となったことでその恐怖は払拭された。物事は名付けることによって硬化し、衰弱する。
当然、曖昧なままにしておけない問題も多数ある。福島原発事故以降はじめて子どもの甲状腺がんが発生した。福島から出荷される食品は安全だ、風評被害はあってはならないと声高に叫ばれているが、その実、検査の結果は対数であったりするのでわたしは何をどこまで信用してよいかわからない。大袈裟かもしれないが自分の生死にダイレクトなことを明確に知らされていないというのは由々しき問題である。こういった社会不信の積み重ねが不安に対する弱さの要因かもしれない。
個人の発した不確かな情報であってもSNSなどにより瞬く間に拡散されるようになった。それらを鵜呑みにするひと、発信者を攻撃するひと、受け取り方は様々であるが情報元や経緯を確認せずにあおるひとは多いのだから、それらに振り回されてはならない。
重要なのは曖昧なもの、曖昧なままにしておいても良いものは何かを判断する能力だ。
つまり思考の強度である。
何でもに不安を抱いたり白黒つけなければ気の済まない人間は思考が弱い。
以前、「自分で考えて得た考察に対する価値」について触れたが、考察の深度は問題ではない。どれだけ浅かろうが稚拙だろうが、自分で導き出した結果ならそれは強い。強度と同時に柔軟性も必要であるが、自分で判断できる能力があれば問題無いだろう。
よしもとばななが「オバQ」を引き合いに世間のひとは異質なものに意外とすぐ慣れる、というようなことを書いていた。映画『TED』の例もある。曖昧な存在が即ち有害とは限らないのだ。白黒つけられないものをすぐに排除しようとする流れにわたしは不安を感じる。大江健三郎が謳ったように良かれ悪しかれ日本人は概ね曖昧なものである。山積する社会不信や急激なグローバル化とともに曖昧なことは悪であるとされるようになっている。グローバル化というよりはアメリカ化かもしれない。端から端までおさえつけるような契約や訴訟の文化は元々の日本には無かったものだ。
古典回帰したいのではない。曖昧な存在を何となく不安、何となく有害、のように気分や雰囲気で排除していては社会はあまりにも画一化し、落伍すればレッテルを貼られるなど結局は自分が生き難くなることにつながるだろう。不安なことの多い昨今だからこそ、曖昧なものを曖昧なままにしておける強さを持たなければならない。やんちゃなテディベアは多少、だいぶ問題だったけれど。

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