感情論と感情で扱う論理と倫理

わたしはすべての詩的なものは愛せども、個人の感情に当人が価値を求めたものはえてして気色が悪いと思っているのだけれど、先日、このような記事を拝読した。

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自分を論理的だと思っている人へ/論理的思考へのよくある4つの誤解 http://huff.to/WsWDE3 @HuffPostJapanさんから

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「論理的思考は万能ではない」「論理的思考能力とコミュニケーション能力は別物である」というのが主軸で、言っていることはよくわかるのだけれど、いささか筆圧が強すぎて「周囲に空気を読まずに論理をふりかざすイヤな輩がいるのだろうな」と察せられる。

それはさておき論理と感情であるが、これは優劣ではなくその時々においてどちらに重きを置かれるべきか、という配分の話であるのに「声が大きい方が有利」のような現象があるように思う。仕事にしても、カップル及び家庭の問題にしても。弁証法でも否定弁証法でもかまわないのだが本来は折り合いをつけたり妥協点を探ったり、あるいは別の新しい方法を考えたりするべきところをお互いに受け入れないから結局強く出た方が勝つ、意志の強さが問題である、のような場面に出くわすことが多い。

ちなみにわたしは非常に感情的な人間なのだけれど、仕事において論理や倫理で判断できる・しなければいけないようなものを感情で動かそうとされることにたいへんな嫌悪感を覚えるので、そういうときはより強固な論理で説き伏せようとしてしまう。

前述の記事だと1番に該当するだろうか。

倫理が経年の感情の総体であるにしても、個人の感情に価値は無い。あるとしてもそれは他人が決めることで当人ではない。

そうして、この筆者の周囲の論理的な人々も概ねわたしと変わらないのではないか、という気がする。

人間なのだから当然、感情はある。他人の感情に配慮する心構えもある。「仕事においては感情はすべて差っ引いて考えなければならない」「論理だけが正しい」とは思っていない。「仕事において論理や倫理で判断できる・しなければいけない」事象に関しても段階に差があるだろうし、モチベーションに関わる部分は否定するべきではない。そうであるにしても現場の人間の感情が最優先だ、おまえにはそれがわかってない、とぶつかってこられるとこちらも感情的になって否定のために必要以上にシステマチックな対応をせざるをえなくなる。結局は感情対感情であるし反知性主義者と理想主義者の泥仕合のようである。勝っても負けても後味が悪いし人間関係にも響く。

話はそれるが、自分の話を聞いてほしいと思ったときに重要なのは伝え方の創意工夫やタイミングよりも相手から「話を聞いてあげてもいい」と思われることで、どんなに有意義な話や提案であっても聞いてもらえなければ意味が無い。それはほとんど人望に近いと思う。普段からの生き方や関係性がものを言う。

つまり必要なのはバランスや思いやりで、わたしやあなた方に欠けているのもそれなのである。

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