炎上解析イコール自己分析

ルミネの件である。

先日のルミネのうったCMがたいへんな炎上を引き起こしたことは記憶に新しい。上司とおぼしき男性が同僚女性と別の女性の容姿を比較し、「需要が違う」(暗におまえには需要が無い)と発言したり、ののしられた方の女性がそれを経て「変わらなきゃ」と決意するあのCMである。

念のため、経緯を示した記事も記しておく。

・・・・・・・・

ルミネのCM動画炎上で、謝罪文を公開 - エキサイトニュース http://www.excite.co.jp/News/society_g/20150322/Credo_9665.html

【ルミネ炎上CM】広報へ制作意図を直撃「女性の変わりたい気持ちを応援したかった」 http://wol.nikkeibp.co.jp/article/trend/20150323/202861/

・・・・・・・・

この件に関しては「男性の需要にこたえることが求められていることなのか」から「何が悪いかさっぱりわからない」といった発言まで様々で、はたまた人気の女性ブロガーが「上司がイケメンだったらセクハラにはならなかったのではないか」という旨の発言したことで別の炎上を引き起こしたり、たいへん楽しいお祭り騒ぎとなっていた。

第1弾、第2弾とあったのでルミネがどういった帰結を示す予定だったのか惹起されるところではあるが、問題の本質は企業がハラスメントを肯定する広告をうった、その対象が企業のターゲット層であった、つまり企業はターゲットをその程度の存在とみなしていることが露呈された、というところだろうか。

ルミネはその後、謝罪の上で件のCM動画を削除しているのだが、その謝罪内容に対しても「他人事のようだ」と批判されていた。そうして興味深いのは批判しているひとたちが概ね「炎上について考えさせられる」と、まるで自分たちが炎上の一翼を担っているということに気付かぬ口ぶりであったことだ。炎上のメカニズムは概ね「企業や媒体、あるいは個人が物議を醸す言動を取る→発見した個人がさらし、世間に拡散される→評論家や思想家が批判する→彼らに影響を受け、自分のことを批判的だと思っている人間が二番煎じの批判をする→終焉」というものであろうが、この、「批評家気取り」の発電量で炎上の大小が決まるような気がする。

ところでわたしは炎上について考えたいのではない。

懸念しているのは「批評家気取りたちが炎上の一翼を担っていることに気付いていない」ということである。

ルミネの場合、謝罪すべき対象はまずは株主・テナント・顧客であり、恐らく「批評家気取り」たちはそのどれにも該当しないだろう。そうなるとその批判が必要とされているかは極めて怪しい。

「客観視であればいかなる発言も許容される」と考えているのかもしれないが、そもそも自分たちが客体に含まれていない以上、それは誤りなのである。

主体が客観視しているものが客体であり、「批評家気取り」を主体とした場合、ルミネが客体、炎上の様子を捉えることが客観視に該当する。そうするならば彼らの言動に非難の余地は無いように見える。しかし、主体をルミネとして考えた場合、客体はまずは「株主・テナント・顧客」である。つまり「批評家気取り」たちはルミネの客体ではない。外野である。

ルミネが謝罪すべき対象として「株主・テナント・顧客」を挙げたが、「おさわがせしたこと」という結果に対してその必要があるとすればそれは世間が該当するのだろうが、「批評家気取り」たちはこの「世間」でしかないのだ。

世間には「いじめを見て見ぬフリをするのはいじめているのと同じ」という考え方があるが、彼らが「客観視」しているから良いというのならそれはいじめと同質なのではないだろうか。また、批判することで企業のイメージ低下に影響しているのなら直接いじめに加担しているのと同じである。批判のゆるされる客体であるとするならば、炎上させているのは自分たちであるという自覚を持たねばならない。

わたし自身、哲学に明るくないので詳細な発言は憚られるのだが、漠然とでも知っておく必要のあることは多い。人間が存在している理由を様々な面から考えなければ自己の存在の意義がわからない。自己の存在意義がわからないから他人の存在意義もわからない。そうであるからいじめや差別はなくならない。

昨今は理系ブームの影響で実学が重要視され、文系学部廃止の提言が議論を呼ぶなどしている。哲学や文学など、直接お金を生み出さない学問は非生産的であると考えているのだろう。人間がどうあるべきかを考えない人間がどのような社会を創造しえるというのか。考えるだに恐ろしいことである。

話は変わるが、わたしは女性が女性らしく装うことで場の雰囲気を明るく華やかにしたりすること自体はとても良いことだと思う。また、服装にはTPOがあるのだからその場に応じた出で立ちでいるということも大事なことだろう。それらを無視して「好きな格好を貫き通す」「ファッションは個性」に固執して周囲に違和感を与える格好をすることの方がハラスメントに抵触するのではないか、という気さえする。ある程度は場の「需要」にあわせたうえで、自分の働き易い方向に持っていくのがしなやかでスマートなやり方なのではないか、と思うのだけれどこういった発言は男性社会への迎合、ルミネ擁護と受け取られてしまうのだろうか。それではまた別の機会に。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?