「わからない」ことは武器ではない

わたしは読解力が低く、あらゆるリテラシーに乏しく、物事を理解するのに時間がかかるし時間をかけても理解できないことが多い。そうして、そのことを恥ずかしいことだと思っているので賢いひとと話しているとついていけなくて申し訳無い気持ちになることが多いし、卑屈な気持ちになってくる。それだからこそ、そのことで相手に迷惑をかけたくないと気を付けているのだが、昨今は「アタマが悪い」ということを武器にするひとが多くておぞましい。

自分でなくとも誰かが何かを発言した際に「意味がわかりません」「何がおもしろいのかわかりません」と、「わからない」ということをふりかざし、自分を納得させることができない、楽しませることができないおまえが悪い、というような態度で開き直っている。

「知らない」ということであれば知れば良いだけなのであまり問題ではないと思われるが、「わからない」というのは相手の伝達能力をなじったり、自分の理解力の低さを示すものであるので安易に投げつけるべきではないはずだ。また、理解力の低さが自己で完結していればよいのだが、先述したとおり自分側に問題があるにも関わらず相手方に非があるように振る舞うのはナンセンスだと思う。

その要因について、「わからない」と言いさえすれば正解が並べてもらえる、のような環境にいることの他に考えることを放棄していることもあげられるだろう。単純に考えることがめんどくさい、考えるということをしたことがないのでその方法がわからない、もしくは相手方の能力の高さを内心では認めているので自分が考えたところで批判できるレベルには到達できないというあきらめ、放棄の理由は様々だろう。

しかし、「アタマが悪い」ということと「粗野である」ということは違うので、どれだけ自分の程度が低くても、それをさらに自分で貶めるようなことはするべきではないと思う。

対面且つそれが許されるような場ならまだしもインターネットなど、知人ですらない相手に向かって「意味がわかりません」などと投げるのはたいへんに粗暴なことだと思う。

自分の能力の低さを武器にしてはならないし、本当にわからないのならわからないなりに考える必要があると思う。自分で考えて得た考察でなければ意味が無いのだ。どれだけ程度が低かろうが浅かろうが、自分で考えて到達した結果ならそれなりに価値のあることだとわたしは思う。わたし程度が考えて書くようなことであれば多くのひとが考えるだろうし、すでに論理的に、建設的に述べられていることだと思う。そうであるにしても、わたし自身が考えたものであればそれはわたしの血肉となるだろうし、次の糸口になるはずである。開き直ったり、相手をなじったりしていても自分が得るものは何も無い。

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