好意や善意もハラスメントに成り得るということ

「ありのままの姿」や「本当の自分」のようなものがもてはやされて久しい。抑圧された生活の中で求められる役割を演じることに疲弊し、それらの存在を信じることが生きる糧になっているのかもしれない。しかし実際のそれは「意のままに好き勝手に振る舞う粗野な自分」や「理想化された自分」をあらわしているような気がする。
社会性を喪失しても良い、というのでなければ恐らくは概ね後者への憧れであると思われるが、あまりにもそれが拡張しすぎると実際の自分とのギャップに苛まれることになると思う。
また、それらを前向きに捉え過ぎた結果、自分にばかり価値を置いてそれが周りにもたらす影響についての配慮に欠ける行動を取るのは剣呑なことである。
例えば好意を伝えるということ。
好意を持ったり、それをきっかけに何かに精進したりすることは良いことだし、社会的影響の少ない学生であれば価値を置くこともやぶさかではない。ただし、それを相手に伝えるには慎重でなくてはならないと思う。受け入れられなかった際の自分のダメージが問題なのではない。拒絶する方にも相当の心理的負担があるのだし、その後の関係に支障をきたすマイナスについて考慮することが必要である。
ましてや当人のみが知るところであるならばまだしも、周りを巻き込んで為された場合、周りからは「あのひとから好かれているひと」として認識されてしまう。もしもその中にそのひとの好意を寄せるひとがいた場合、もはや迷惑でしかない。一般的に好意は否定されるべきでばないものとして捉えられているので、迷惑を表明するとそうした方が悪のようにされるのももどかしい。
残念なことに「自分の気持ち」に従うことこそが是だと考えるひとは他人がそれによって被る迷惑に思いが至らないことが散見される。
相手の気持ちに関わらずそれを敢行するのはほとんど信仰に近い。神頼み感覚で投げられるのでは困る。好意であれば良いという話ではないのだ。また、ここでは好意を取り上げたが共感や嫌悪、善意も同様である。相手の迷惑を顧みずに「自分の気持ち」を投げることはハラスメントに近い。
「自分の気持ち」とやらにどれだけの価値があるのか再考するべきだと思う。

補足
このようなことを書くと伝わってほしいひとには伝わらず、思慮深いひとにこそ刺さってしまう。なぜならば伝わってほしいひとはこの場合「自分の気持ち」は肯定されるべきものだと考えているのでまさかそれが否定されるとは夢にも思わないからで、たいへんに残念なことである。

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