それぞれの責任の所在

後藤健二さんの解放を求める妻の声明を拝読したとき、落ち着いていながらも真摯で、とても胸を打つものだと思った。むしろ落ち着きすぎていて、世間の「自己責任」論者に配慮したものであろうことも察せられ、えもいわれぬ気分になった。以前のイラク人質事件を踏まえて、ということもあるかもしれない。

殺害後に公開された声明はそのことが如実にあらわれていると思う。

どのような方か存じ上げないので勝手なことを言うのははばかられるし、元々思慮深く、落ち着いた方で取り乱すことの無いのかもしれないが、とても慎重な様子が感じられる。自分の家族がまさにいま殺されんとしているとき、「助けて」と泣いて訴えることのできない社会は果たして健全と言えるだろうか。原因が被害者本人にあったとしても、妻が助けを求めるのは娘を世間からの非難にさらすほどおかしなこと、悪いことなのだろうか。

わたしは本当にかなしいと思った。

身代金として自分の税金が投入される可能性に腹立たしい、単純に不愉快、政府は他にもやるべきことがあるのに自ら紛争地域に入って拉致された邦人を救出している場合ではない、様々な考え方があるだろう。しかしながら何度でも問いたい。「自己責任」とは自分に落ち度があれば何をされても仕方が無いというものなのだろうか。どれだけ落ち度があろうとも被害者である。被害者やその家族を糾弾し、助けてほしいときに助けを求められない社会は何を守ろうとしているのだろう。被害者の落ち度や事件の大小が問題なのではない。生きていれば誰もが被害者になる可能性がある。被害者を責めるということは自分が被害者になったときにも助けを求められない、自らも生き難い社会をつくることにつながるのだ。

ましてや死者を鞭打つ、その家族が攻撃されることなど絶対にあってはならない。

ただ、以前のイラクのときと違うのは逆の意見が可視化されたことだとも思う。SNSの発展により誰もが自分の意見をより気軽に発信できるようになったことで、メディアが殊更に「自己責任」とあおっていたイラク人質事件当時と異なり、それを非難する声も多く聞かれる。これは本当に救いだと思う。イラクのとき、あまりにも「自己責任」論が隆盛なことにわたしは本当に孤独だった。アタマがおかしいと言われているような気さえしたものだ。

SNSなど、興味や関心の方向性が自分に似たひとや近いひとの意見を眺めるのだから、わたしがそのような意見に接することの増えたのは当然のことであるにせよ、それが一部のアタマのおかしい人間の戯言に終始しないことを切に、切に願っている。現在のわたしや未来のわたし、わたしの家族、誰でものために。

追記

この事件について「政府を非難するのはおかしい、悪いのはイスラム国だ」のような意見を何度も見聞きしたが、それこそ平和ボケの極みだと思う。国民を救出するにあたっての政府の対応に不満を感じれば非難するのは当然だし、それがどれだけ不可能に近いものでもあらゆる手を尽くすのが当然だろう。もちろん、紛争地域に赴く本人の行動も軽薄であったことは否めない。ましてやテロリストが悪であるのは言うまでもなく、非難されるべきはそれぞれが別の話であるので非難し易い方へ矛先を向けるのはたいへんに雑なことだと思う。「英雄になるために自決しろ」という著名人の意見に多くの賛同が寄せられるくらいだからもはやバイアスの問題ではないのだろう。

後藤健二さんの妻が手記を公表「これは健二の最後のチャンスです」(全文) http://www.huffingtonpost.jp/2015/01/29/rinko-message_n_6570652.html

後藤健二さん妻「夫を誇りに思う」 支援団体通じ声明【イスラム国】 http://www.huffingtonpost.jp/2015/02/01/wife-of-kenji-goto_n_6589524.html

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