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英語を破壊する我々、犬

うだうだと英語学習に関する蘊蓄や感想を述べることはやめにして、ひとつ、我々非英語ネイティブが秘める、破壊力に注目してみてはどうだろうか。約めて言うなら、我々は英語を破壊する潜在的存在なのだ。

実例を取って考えれば、最も速く我々のその潜在性質を意識することができるだろう。インド人(あるいはその周辺地域の人)の話す英語が顕著である。発音は言うまでもなく、語彙も多少独特であり、ものによればアメリカ人イギリス人等に全く伝わらない。その話者人口を加味すれば、これは既に、標準とされる英語がさして標準的でないことに他ならない。現に、いわゆる容認発音は、イギリスにおいて多数派ではない。ただ特権的なのである。

我々日本語ネイティブはどうだろうか。疑うまでもなく、我々の英語は主にアメリカ英語とされる英語の犬である。イギリス英語(とりわけ容認発音)の方が話しやすいことも知らずに、rとlを混同し、語末の母音を捨てきれず、万年世界的英語劣等生として地を這うのだ。少しはその回らぬ口で、飼い主を噛もうとしないのか。犬の心がわからぬ飼い主など失格であると知りながら、アメリカ英語に頭を垂れ、我々は犬をまっとうするのだろうか。

ここまでくれば、言わんとすることは自明であろう。我々は一心に、習った英語を、我々内で伝わる範囲で破壊し、その散り散りで唾液まみれの英語を、先に死にゆく飼い主の墓に唾を吐くように、ただぶちまければ良い。

我々の自尊心の問題ではない。我々はただ(獰猛な)犬のように振る舞うことを許されているのだ。もしそれが受け入れられなければ、飼い主の好きな権利について、歯を詰め替えてから話し始めれば良い。

我々自身を犬と認めなくとも(あるいは認められなくとも)、破壊は常に我々のマイルドな特権としてあることを、我々は認めなければならないが。

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