2019年1月第4週目の近況報告──天冥の標、カーネギー、西田幾多郎、市原悦子。

近況報告
今週も少し体調面のトラブルがあってインプットに対するモチベーションが落ちてしまっていた。今は問題ないので来週は頑張りたいところ。反面で、最近サボっていたプリズナートレーニングを再開できたので良いこと。

今週の進捗
映像ノルマが未達成。残念。
読書(69%+60頁)
・小川一水「天冥の標Ⅹ-1」(ハヤカワJA文庫)44〜87%(読了)
・カーネギー「人を動かす 文庫版」(創元社)13%
・小川一水「天冥の標Ⅹ-2」 (ハヤカワJA文庫)13%
・藤田正勝「西田幾多郎──生きることと哲学」(岩波新書)1〜60頁。第二章まで。

映像(0分)

それぞれの感想
・小川一水「天冥の標Ⅹ-1,2」
のんべんたらりとX-1を読んでいたらpart2が発売されてしまったのでpart1読了後にすぐに読めた。ラッキーといえばラッキーだけど、この調子でpart2も積んでしまったら完結に足並みを揃えられくなり哀しいので優先順位を上げて読んでいる。
というのは半分冗談で、そんなことを意識しなくても暇があれば読んでしまう。長期シリーズの最終シーズンを読む気持ちは、例えるなら将棋の重要タイトルの獲得がかかった棋士の大一番を見守っている感じだ。ベテラン棋士の一手一手が着実に相手を追い詰めていく。小説の場合、棋士の相手は物語という姿の見えない怪物で、読者は棋士がこの怪物と切った張ったを繰り返している様をずっと追いかけてきた。怪物との勝負もいよいよ終盤戦を迎えている。このまま何もなければ有終の美を飾れるだろう。しかし最後には一番大きな障害が待ち受けているに違いない。part2の冒頭は、そのような波乱の予感を帯びている。

カーネギー「人を動かす 文庫版」(創元社)
自己啓発の古典。なんと原著は1937年に発表されたらしい。
これは「文庫版」とあるように元の本を抜粋したエッセンシャル版となっている。
しかし古い本なのでクドく感じられる部分が多いので抜粋で十分という気がする。
内容は、とにかく人を使うのが上手いと評判の経営者や政治家のエピソードを紐解いて人心掌握術を解説するというもので、政治家だとリンカーンの例が載っている。彼は後年は人格者として知られているのだけど、初めは人の悪口を言うのが好きで、気に入らない政敵などがいると新聞の投書欄に匿名で風刺文を投稿したり、中傷ビラを街中に撒いていたらしい。めっちゃ性格悪い。それで、ブチ切れた相手がリンカーンを特定して決闘を申し込んだことがあって、さすがのリンカーンもそれに懲りてからは人の恨みを買いそうなことはしないようになった、むしろ決して他人を怒らない超人格者に改心した、というエピソードが紹介されていた。たぶんこの本が読み継がれている理由の半分くらいは紹介されているエピソードが面白いことにある。
このエピソードを通じて著者が何を言おうとしているかというと、とにかく人にモチベーションを抱かせるためには絶対に頭ごなしに怒ってはいけない、むしろ無理やりにでも褒めろ、なぜなら人間は自分が大事だからだ、ということ。当たり前のことだけど大体100年経っても常識にはなっていないことなので、この主張だけ取り上げてもこの本は未だ読まれる価値があると言えそうだ。この章の冒頭には、凶悪犯罪者に話を聞いてみると驚くことに少しも自分をい悪人だと思っていなかった、という挿話も挟まれている。したがって、犯罪者のように客観的に明らかな悪事を犯していてさえ自分の悪事に無自覚になれるほど人間は主観を中心とした価値観を持っているのだから、いわんや人心をうまく使おうというのなら相手の価値観や尊厳を否定しちゃダメだよね、ってことだ。なるほどね。かといって人間だし、トップにいれば、怒りに震えることもあるだろう。そういうときに偉人たちがどうしてたのかというエピソードも紹介されている。ここもなかなか面白いけど、これ以上長くなっても仕方ないのでやめよう。

藤田正勝「西田幾多郎──生きることと哲学」(岩波新書)
清水高志さんの「実在への殺到」という本を読んでから西田幾多郎が気になっている。
西田幾多郎は京都学派という日本哲学の流派があって、そのなかのビッグネームの一人。この京都学派全体には戦争責任に絡む毀誉褒貶があるようだけど、そうはいっても日本思想を考えるときに日本固有の哲学をやろうとしていた京都学派は無視できない存在である、らしい。以上のようなやや語りにくい事情がありつつ、この本は比較的ストレートに西田自身の人となりと思想の変遷を追っており、コンパクトにまとまっていると思う。

西田幾多郎といえば「善の研究」が有名だけど、これはもともと「純粋経験と実在」というタイトルで出版される予定だったという(38P)。「善の研究」だと倫理学の本なのかな、と漠然とした印象を抱くと思う。僕も初めはそう思っていた。しかし内容は全く違う。西田は「善の研究」では主体と客体の二項対立以前に存在する裸の経験である「純粋経験」について思索をめぐらせている。当時の西洋哲学では、例えば人間がリンゴを見るときには人間に備わっている知覚の形式を通じて初めてリンゴという経験に触れることができると考える。しかし西田はそれに納得しなかった。彼は人とモノは知覚を介した抽象化の段階を踏まずに直に経験に触れているのだ、と考えようとした。その例が、後期西田が繰り返しているらしい「物となって見、物となって考える」というフレーズに圧縮されている。精神と自然を対立軸で考えるのではなく、対象を見るときには自分もその対象と一体化しているのだ、と西田は言う。

と、言われてもよくわからないので、ひとつ例を出してみる。この前、あるバラエティ番組を見ていたら、先日亡くなった市原悦子さんの追悼VTRが流れていた。過去に出演したときの映像だったのだけど、そこで聞き手の男性アナウンサーが(おそらく「日本昔ばなし」の)ナレーションの話を「どのように演じていたのか」と彼女に振った。すると市原さんは「演じるんじゃないんです」と返した。どういうことか、と聞き手が返すと、市原さんは目の前のヤカンを指して、「ヤカンになったことをイメージして、ヤカンがどう思っているのか、心にヤカンの言葉が湧いてくるのを待つ」と答えていた。これは西田が言う、「物になって見」ることの良い例だと思う。「演じる」という言葉は対象を分析して特定の何か(言葉や行為の連関などに)還元する操作を含む(少なくとも市原さんのなかではそうなっている)けど、そうではなく、演者とヤカンが経験のなかで一体化することで、演者は心の中でヤカンの実在に触れる。そうして初めてヤカンになれる、ヤカンとして声を出せるのだ、と彼女は言っているのだと思う。

これは面白いことで、少なくとも自己と他者という隔たりを含んだ関係にいる限り、「演じた」ことにはならず、真に相手に変身しなければ演技は成立しないということだ。市原さんは別のところでも「役者だから素の自分はもうわからない」という旨のことを言っていて、自己と他なるものが交わることで成立する役者という存在のユニークさを伝えている言葉だと思う。西田の面白さはこういうところで実践的な感覚と繋がっているところにあるので、先を読むのが楽しみです。
今週はこんなところで。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?