2019年2月第2週の近況報告──物語工学論、映画「刀剣乱舞」など

近況報告とか
先週は後述するように映画「刀剣乱舞」を見られたことが収穫。
最近寒すぎるのでもうすこし手心を加えて欲しい。

進捗
小説(達成)
小川一水「天冥の標Ⅹ 青葉よ、豊かなれPART2」(ハヤカワ文庫JA)50%〜読了
実用書
新城カズマ「物語工学論 キャラクターの作り方」(角川ソフィア文庫)読了
門田修平「外国語を話せるようになるしくみ シャドーイングが言語習得を促進するメカニズム」(サイエンス・アイ新書)28%
映像(達成)
映画「刀剣乱舞」

感想とか
・小川一水「天冥の標Ⅹ 青葉よ、豊かなれPART2」50%〜読了
既刊最新刊を読み切ってしまった。そして今月末に刊行されるPART3をもって天冥の標シリーズはフィナーレを迎えるわけです。その「終わり」につながっている今巻はどうなっているんだ、という話ですが、語られるべきことが語られ、今まさに一つの終わりに向かっている。その終わり方がこの物語らしい。多様性ある生命にとっての敵と対峙してきたこのシリーズは、まさに繁栄を寿ぐことによって終わろうとしている。あと1巻、続きが楽しみです。

・新城カズマ「物語工学論」
知り合いが再読していたところを見て、途中までしか読んでいなかったことを思い出して読んだ。まずキャラクターの類型とは動機であり、動機と物語は深く結びついていると初めに説明される。どういうことか。時代背景によってキャラクターの動機は変わりうる、と著者は書く。ある時代では成立していたキャラクター類型が、別の時代では成り立たないことがあるんですね。例えばジェンダー規範からの解放を企てる「武装戦闘美女」という類型は、社会の法秩序が現代よりも緩く、また女性が戦闘に参加する通念がある古代世界などでは成立しにくくなる。といったように物語世界とそこに生きるキャラクター(の動機)は入れ子状になっている。したがってキャラクターの類型を押さえることは物語の基本的なバリュエーションについて学ぶことでもあると教えてくれる。
著者は7つのキャラクター類型を挙げているけど、本文中にも断りがあるように、キャラクター類型を全て網羅した本ではない。実際に本書の記述に接してみると類型を(工学的に)変形・置換して、自分が語りたい物語に織り込むことを勧めている。だから暗算パターンで効率化できるところはしておいて、そのぶん語りたいものに力を注ぐという手段を推奨しているのである。たぶん。
物を描きたいけどとにかく何から手をつけたらいいのかわからない、という人が初めて手に取るのでも、物語を書くことに悩んだような人が参照する本としても物語=キャラクターというコアな部分がコンパクトにまとまっている良い本だと思う。ちょっと書きぶりが難しいかもしれないけど。

・門田修平「外国語を話せるようになるしくみ シャドーイングが言語習得を促進するメカニズム」(サイエンス・アイ新書)28%
以下の記事で紹介されていた本。まだ途中だけど、サイエンスレーベルなのでこの手の本でありがちな胡散臭さがなく、エビデンス重視でシャドーイングの教育的効果が書かれている。詳しくはこちらの記事を参照。

シャドーイングのすすめ - 殺シ屋鬼司令Ⅱ
https://thinkeroid.hateblo.jp/entry/20190205/1549370464

・映画「刀剣乱舞」
超よかった。ツイッターでも感想を書いたけどまた少し書く。
もともとミュージカル版を一作(「つはものどもがゆめのあと」)観ていて、そこで描かれている題材とテーマが好きだったので映画も楽しみにしていた。ところがタイミングが悪くて行く機会を作れなくて、このあいだの土曜に無理やり行ってきた。雪も降っていて寒かったので外に出たくなかったんですが、行けてよかった。

見た直後のツイートはここにぶらさがってます。→https://twitter.com/facet31/status/1094170808253968387?s=21


先述の「つはもの〜」は、勧進帳を題材にしているもので例の場面ももちろん登場する。ただそれ以上に焦点化されるのは刀と主人の関係や実在・非実在刀の在り方など、「もし刀剣がヒトの在り方をしていたら」というIFを「語られてきた歴史」に外挿する。「正史」を守るといっても実際には「語られてきた歴史」を守れさえすればいい。辻褄が合えばいいわけですね。ここにドラマが生まれる余地ができる。
映画もこうした「刀剣乱舞」ならではのギミックを使っている。詳しくはネタバレになるので書きませんが、本能寺の変という日本人なら誰でも知っている歴史上の事実が刀剣の視点を借りて語り直されるとき、まったく別の像が現れてくるという展開は非常にスリリングでした。出来事という現象は単一の点ではなく点と点が集まった線のことで、こと史実では人という単位が出来事の点を構成している。だから、歴史物のIFを扱う難しさは、ある人物を史実と異なる動かし方をしたときに、どうしたら「その人らしさ」を維持しながら動くのか、動いたとして納得のいくシミュレーション結果は得られるのか、という問題が持ち上がってくると思う。今作はこうした「時代劇」としての説得力をもたせることに成功しているんですね。そして同時にモノとしての「刀剣」が伴走してきた歴史という側面もピックアップしてくる。大ネタがそれに絡んでくる。正直言って構成が綺麗すぎる。
キャラクターに関していえばとくに羽柴秀吉の描き方がシミュレーションとして面白かった。天下人としての異質な人物像が描かれていて納得感があり、かつゾクッとした。あと信長も良かった。秀吉はシナリオと秀吉役の八嶋智人さんの演技の両輪が回って成立したものだとわかるんだけど、信長は「信長である」ことでしか説得力をもたせられないために、ほとんど山本耕史さんの演技ありきで構築されていたキャラクターだったのが大胆だった。大胆かつストロング。
そしてここまで来たら三日月宗近(演・鈴木拡樹)にも触れないわけにはいかない。三日月宗近が三日月宗近として存在していなければ、この物語は成立していないといっていい。いくら信長が「らしく」作られていても、彼と対峙する三日月宗近が、信長が面前にいてもその神秘的な存在感が揺らがないようなモノでなければ、ソレは「三日月宗近」ではないからだ。信長だけではない、本丸の危機を一人で背負いこむ責任感や作戦時の知略など、数々の「三日月宗近らしさ」がこの映画には込められている。そして鈴木拡樹さんはその大役をまっとうしていた。すごいですね。

他の刀剣についても触れるべきなんですが、まだ固まっておらず箇条書きみたいになるので避けてしまった。薬研藤四郎の太ももが眩しいとか、骨喰藤四郎の可憐さとか、日本号の雄々しさとか鶯丸のハマり役ぶりとか、へし切の直情的で素直なところとか、山姥切くんはなんだろうなんでしょうね、不動行光はカップ酒持ってるJKじゃないコレ?とか、感想は色々あるんですが……とはいえ長くなってしまったので今週はこのあたりで。(以下文章なし)

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