2019年2月第1週の近況報告──「マンゴーと手榴弾」、「レディ・プレイヤー1」

近況報告
「今週あんまり読めてない!!ヤバい!!」と感じてファミレスに籠もって読書してみたらすごく捗りました。耳栓をした上でポモドーロ・テクニック(25分作業+5分休憩をワンセットにして繰り返す方法)を回していくと、延々と読める。嬉しいですね。

アウトプットも強化したいので、次回から何でもいいから書いた文字数をカウントしていきたいですね。カウントできるといいな。

読書
33%+117頁なので目標クリア。
小川一水『天冥の標Ⅹー2』(27%~60%)
岸政彦『マンゴーと手榴弾:生活史の理論』(けいそうブックス)224~341頁(117頁/読了)

映像
・映画『レディ・プレイヤー1』(2018年/監督:スティーブン・スピルバーグ)

それぞれの感想など
・『天冥の標』
さすがに中途半端な進行状況なので飛ばしますが、面白いですね。特に性の話が良い…。

・岸政彦『マンゴーと手榴弾:生活史の理論』

ここでは立ち入った感想を書く気はないけど、素晴らしい内容だったので導入めいたものを書いてみたい。

著者は生活史調査を専門とする社会学者だ。これを読んでいる人が社会学者についてどんなイメージがあるのかわからないけど、岸さんは人間の理解というものを真摯に行おうとしている人だ、と僕は思う。彼は社会学の質的調査(聞き取り調査)という方法をもちいて、望んでもいないのに特定の時代・場所に生まれてしまった理不尽な存在である人間というもの、その生を取り囲む複雑な細部に歩み寄っていく。

 前にも著者の本は読んだことがある。一般向けに書かれた『断片的なものの社会学』(朝日出版社)という本だ。これは著者が調査として調査対象者に対して聞き取りを行った際の記録をベースにして書かれたエッセイだ。論文には使われることはなく、しかし著者の記憶に残っている断片的な語りがまとめられている。調査対象の人々だけでなく著者自身の話もここには含まれているが、ここでは紹介できないほどきわめて私的な話が書かれている。

 著者の話に限らず、どのエピソードも私的なもの、ささいな出来事についての語りだ。それにもかかわらず、ここに書かれているエピソードはどれも印象に残る。たぶん、出来事のディテールと個人の生が分かちがたく結びついているからだ。ディテールについての語りを聴くことは、切ったら血が滴るような剥き出しの生をそれを聴いた側が受け取るということなのだ。ディテールには力がある。「いま、ここ」にはないが、「たしかに、どこかにあった」現実を丸ごと匂わせるような力が。これは文学の力にも似ている。事実、岸は小説も書いている。(「ビニール傘」(新潮社)

 『マンゴーと手榴弾』では、『断片的~』で展開されていた、ディテールから理解・のようなものが立ち上がる生活史の魅惑的な力を、理論面から書き出している。骨のある内容なのでこの欄で紹介することはやめたい。機会があれば「はじめに」をどこかで読んでもらえるといい思う。そこには「誤解だらけの認識をもった人間たちが、どうしたらよりよい理解に近づけるのか」と一人の社会学者が悪戦苦闘してきた痕跡がある。本書を読んで、理解しようにも掴みどころがなく、複雑すぎる現実というものをもう少し理解するように努めてもいいのかもしれない、と思えるようになった。

いくつか書評を載せておく。

『マンゴーと手榴弾―生活史の理論―』 隣り合う誰かに何を手渡せるか - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース (上間陽子・琉球大学教授)

マンゴーと手榴弾  生活史の理論 書評|岸 政彦(勁草書房)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
「生活史調査の意義
語りをどう研究の中に位置づけるのか」
評者:砂川 秀樹(文化人類学者)

・[書評]『マンゴーと手榴弾――生活史の理論』 - 大槻慎二|WEBRONZA - 朝日新聞社の言論サイト

レディ・プレイヤー1

「俺はガンダムで行く!」が超アツいよ、と公開中から話題になっていた作品。「俺はガンダムで行く!」は超アツかった!!
調べると、トシロウ/ダイトウ役の森崎ウィンさんが考えた台詞らしくて、これはもう素晴らしいというほかない。「俺だったら何で行く……?」と熟考してしまう。本当はウルトラマンを出したかったみたいだけど、円谷プロの海外権利問題の決着がついておらず参加が見送られたとのこと。これは残念。

 ところで、これも散々言われているように、最後ハリデーに「リアル」の重要性について蕩々と説かれるのは、「今までゲーム愛を語っておいてそれかい!」と思う。思うだろう普通は。ハリデーの無念は、好きな娘に告白できなかったこと<ではなく>、親友と仲違いしたことだと最後に明かされる。だから彼自身は人生について決定的な後悔はない、と解釈できる。

そのメッセージは最終的に親友に伝わっているしね。少なくとも欲求についての後悔よりも、自分の仕事や才能を憎んでいたほうが自然だ(「オアシスなんて作らなければよかった」「ゲームを作る才能なんてなければよかった。そうすればただのゲーム好きでいられたのに」など)。

 にもかかわらず、「リアルでないとうまい飯は食えない」(現実世界でなければ本質的な欲求は満たせない)とハリデーに言わせるのはなんだかしっくり来ない。わざわざ自分の思想をトレースできる相手を招いておいて「自分のようにはなるな」と言っているのだから「お前はハリデーじゃない」と反発されてもおかしくはないし、パーシヴァルにはそうする権利はあった。

 もともと主人公サイドの目的はオアシスを悪いやつ(ゲームを理解しない大人)の手から取り戻してピュアなゲーム世界としてのオアシスを復活させることだったわけですよ。ところが見事に敵を倒してオアシスの後継者の一人となったパーシヴァル君は「神」であるハリデーの言葉に納得し、現実に帰り、オアシスで出会った「姫」=彼女(アルテミス)とイチャつく場面で終わる。しかもアルテミスはチャイナ服を着ている。コスプレですよ。つまりこれは「オフ会で出会ったコスプレイヤーといちゃつきたい」というきわめて世俗的なオタクの欲望を肯定して終わるわけです。
 いや、そう考えるとオタクムービーとしての矜持を反古にしているわけじゃないな、と奇妙に納得してしまう。

 ハリデー=スピルバーグのメッセージも「若いモンは娯楽だけじゃなくて色恋とかにも没頭しとけよ!がっはっは」みたいな世話焼きジジイのお節介だったのかな、みたいなことをね、思うよね。
 そういう感じです。

 少し追記すると、エイチの結末がちょっと泣ける。あいつパーシヴァル君のことが明らかに好きだったのに、途中で「恋を応援する親友」にジョブチェンジするじゃん。たぶんコンプレックスがあって無骨な男性アバターにしてたんだろうけど、もしアルテミスのように理想の姿をアバターにしていたらパーシヴァルも受け入れたんじゃないか、と思うと切ないですね。

以上。来週もやっていきましょう。

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