2019年3月第2週の近況報告ーー「福岡伸一、西田哲学を読む」を読む。

近況
先週も油断していたら映像を見なかったので反省している。そのかわり読書は進んだ。『新記号論』に関しては途中なので感想は省く。

記録

福岡伸一+池田善昭『福岡伸一、西田哲学を読む 生命をめぐる思索 動的平衡と絶対矛盾的自己同一』(明石書店)読了

東浩紀+石田英敬『新記号論』(ゲンロン叢書)1/3ほど
・映像は見れず。

感想
・福岡伸一+池田善昭『福岡伸一、西田哲学を読む』(明石書店)

どんな本なの
分子生物学者の福岡伸一氏が『生物と無生物のあいだ』という本で発表した動的平衡という概念を西田幾多郎の哲学と結びつけて考えてみる、というもの。おおまかな構成としては、福岡が西田研究者の池田善昭氏に西田の思想を教わっていく対話パート、それを受けて最後に両者の視点からまとめられた理論パートで分かれている。主に対話パートで構成されている。

ピュシスとロゴス
両者の思想は驚くほど似通っている。しかしそれは偶然ではなく、福岡も西田も近代科学が前提としているロゴス的(分析的、還元主義的)な思考ではない全体論的(ホーリズム的)な仕方で世界を捉えようとしているからだ。それはどういうものなのか。本書の初めに、池田氏は古代ギリシア哲学のイオニアにいたヘラクレイトスという哲学者の紹介をする。彼はピュシス(自然)を重んじる立場にあり、「相反するものの中に美しい調和がある」と考えた。その立場と対になるのがロゴスの立場である。

「隠れることを好む」ピュシスに対して、ロゴスは、自然は人間の理性のなかで完全に暴かれており、それゆえに理解しつくされていると考える。このロゴス主義を代表するのがソクラテス・プラトンであり、以後イオニアの自然哲学は忘れ去られ、西洋哲学の伝統はロゴスが主流になっている。そして20世紀になってからハイデガーがロゴスの裏に隠されたピュシスの思想を発見する。「真の存在はピュシスの中にあった」。ハイデガーは、数学的思考がつくる理念的世界が合理的・客観的なものではなく、じつは人間の主観性に基づくもの(主観性の原理)であることを指摘し、ピュシスがもっているリアリティが捨象されていると考えた。そして、人間の思考からそうしたリアリティ=現存在が失われていることについて彼は「存在の忘却」と表現する。西田幾多郎が「純粋経験」という言葉で表現しようとしていることもハイデガーと同じ問題意識から現れている。主観性の原理ではなく「ピュシスの世界に還れ」というわけだ。

存在と無の「あいだ」
もう一つ、西田には「場所」という概念がある。これは内でもなく外でもない「あいだ」を示す語で、また後期になると「絶対矛盾」とも表現されている。ここから細胞の膜を問題にしている福岡の生命論とリンクしてくる。ある高校教師が「琵琶湖は生きているのか?」と問いを立てた話が引き合いに出され、「動的平衡が生命である」という福岡の定義に従えば、琵琶湖という「あいだ」が維持されて内側と外側でさまざまなものが行き来するのであれば琵琶湖も生きていると言える、というのである。このように福岡は生命現象を機能を列挙するのではなく全体性から説明しようとする。

年輪の比喩
対話はこの直後、西田の「逆限定」という概念の検討から福岡の理解が及ばなくなり、中断されることになる。池田は「逆限定」を年輪の比喩で解説しようとするのだが、この比喩がまたわかりにくい。彼の説明によれば年輪は時間の流れのなかで外的な環境の状態を記録しながら作られていく。だから年輪には、相反する環境(時間)の状態が空間的に記録されている。そのとき、この年輪は環境に包まれていると同時に、環境を(逆に)包んでいると表現される。このことを指して年輪は環境を「逆限定」していると池田は言う。

「包みつつ包まれる」「作られつつ作る」。福岡はこの説明に対して、年輪=部分から環境=全体に対する作用がなければ「逆」とは言えないのではないか、能動態と受動態を入れ替えただけではないか、と批判的な指摘を加える。これはしごくまっとうな理解だと思う。このほかにも福岡は量子力学的な観測の例も持ち出すがうまくいかない。中断されているあいだに交わされた池田との往復書簡を経て、やがて福岡はある理解にたどり着く。

逆限定と先回り
福岡によれば、「環境(年輪)が年輪(環境)を包み、同時に、年輪(環境)が環境(年輪)に包まれる」というのは主語の入れ替えではなく同時に成立する文であり、「生命は、合成を行うと同時に分解を行う」「生命は、エントロピー増大の中にありつつ、エントロピー減少につとめる」という言い方と同じものだ。年輪の形成と表出、細胞の合成と分解、エントロピーの増減。これらは互いに互いを限定(反応)するという「逆限定」の作用によってぐるぐると回転し、そのことによって時間を生み出すしくみなのだ。どうやら西田は相反する部分と全体が互いに反応しあっている(包まれる)しくみのことを「逆限定」と言っており、「逆限定」が成立している(合成と分解が行われている)場所を「絶対矛盾の場所」と呼んでいるようだ。ここから二人の議論は開けていき、福岡が『生物と無生物のあいだ』で書いた「先回り」という生命現象が「逆限定」に相当するものであると合意することになる。福岡のいう「先回り」が何を指しているかわからないと意味が不明瞭なので、孫引きになるが引用しておく。

「もし、やがては崩壊する構成成分をあえて先回りして分解し、このような乱雑さが蓄積する速度よりも早く、常に再構築を行うことができれば、結果的にその仕組みは増大するエントロピーを系の外部に捨てていることになる」(『生物と無生物のあいだ』P.167)。

ここに書かれているのは、放っておけばエントロピー増大の法則によって崩壊(死)を迎える生物が、その法則に抗う方法として崩壊に「先回り」するように分解・再構築を行うことを選び、エントロピーの坂を少しだけ逆上りしているという状態だ。福岡自身の言葉がわかりやすいので引用しよう。

「ものを作ることを頑張っている生命が、実は、ものを作ると同時にエントロピーの増大が迫って来るよりも「先に」自分を壊している」(福岡,本書P.205)

「「先回り」するということは、時間を追い越すことによって時間を作って、そしてちょっとだけエントロピー増大の法則よりも先んじて、あえて壊して作るということを行うことによって、エントロピー増大の法則によって(生命が死に向かって)どんどん坂をくだっているのを絶えず少しずつ登り返しながら、でも全体としては、ずるずるとその坂を下がっていく、というのが生命だと思うんですね。」(福岡,本書P.217)

これについて池田は、「生命は負のエントロピーである」という定義を打ち出したシュレディンガーを引きながら、これがエントロピーを背景とした画期的な定義であったと同時に、生命現象が「どうやって乱雑さを乗り越えて秩序あるものに変容させるのかというその仕組み」を明らかにできていないことを指摘する。福岡の動的平衡は、エントロピーの正負の関係を「流れ」(あいだ)として捉えることで生命現象の実在に迫ったと評価する。

実在としての生命
福岡が注目するのは生命システムの逆説(矛盾)だ。ベタに考えれば、生命を長続きさせるには生命の構造を堅牢にするのが良さそうだが、実際の生命はそうなっていない。あらかじめ崩壊することがシステムに織り込まれており、すべてが崩壊する手前で自らを部分的に分解し・再構成することでエントロピーの増大(死)に抗っている。そのことを福岡は、生命は「先回り」によって時間を作っていると表現している。そうして作られ、死に抗っている時間こそが人間を含めた生命が現に生きている時間である。これが本書がいう生命の実在論的な(ロゴスによるものではない仕方で理解される)定義だ。

まとめ
いくつか説明していないところもあるけど、概要はこんな感じです。
福岡の「先回り」と西田の「逆限定」が結びつき、福岡が動的平衡の「時間を作り出す」側面を再発見し、シュレディンガーの生命定義を乗り越えたところが本書のもっとも面白いところかなと思う。福岡も西田も、ピュシスというあるがままの(実在としての)自然をどう捉えるかという問題と格闘していて、西田が「〜ねばならない」という独特の命令調や、純粋経験や絶対矛盾など難解な表現を使っていたのは「隠れることを好む」ピュシスの姿を直観するためだった。そして、西田の論理が近代生物学のオルタナティブを考えようとしていた福岡の思想と共振し、互いが互いを補完するように融合していったことは読書体験として面白い。

ただし、福岡の生命論にすべて同意するかは別の話で、福岡が書いている花粉とアレルギー薬の関係やエントロピー周りの議論などは疑似科学に応用されてしまうような論点も含まれており、危うい側面があることは書いておきたい。そのことを差し引いて、(自身でも書いているように)還元主義に批判を加える全体論的な立場を張り、シュレディンガー、ファーブル、グールドの系譜に連なる非主流派の生物学思想として考えるなら福岡の思想は生命という現象を考えるときに示唆を与えてくれる。

福岡が西田の『生命』という論文を自己流に翻訳した文章も面白いので、最後に少し引用して終わりたい。

「長文翻訳②
西田原文
世界は自己自身の実在性を有つのである(世界はエントロピー的である)。之に反し世界が全体的一の自己肯定的には、自己自身を形成する、自己の内に自己表現的要素を含むと考えられる時、世界は生命の世界となる。それ自身の独自性を有つ。世界は目的的と考えられるのである。是に於て個物的多は粒子的ではなくして細胞的となる。古典物理学の世界に於ては、物と空間とは相互に独立的と考えられた。量子力学に至って、粒子と波と相補的と考えられるに至ったと云えども、両者は尚何処までも対立的である。

[福岡訳]
世界はエントロピー的である。つまり、秩序はたえず壊されるものとしてあり、この方向性は絶対に非可逆的である。これに対して、全体性をもった有機体が、自分自身を作り出すこと、つまりその内部に自己表現的な要素を持ち得た時、世界は生命の世界となる。
自分自身を作り出すためには、秩序はまず常に壊されるものとしてあり、その上で再構成される必要がある。分解と合成がたえまなく循環する必要がある、このとき初めて、たえず増大するエントロピーをたえず捨て続けることが可能となる、このとき時間は線形的に進むものでなくなり(数量的)、循環から汲み出されるものとして連続的なもの(性質的)になる。」(本書P.182)

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