2019年3月第1週目の近況報告――カーヴァー『大聖堂』、劇ドラ月面探査記

近況など
 読みかけの本はあるけどここに書くほどは読んでいない、という感じで、相対的に読んだといえる本について書く。たぶん普通の小説一冊分は読んでいるはず。映画はここのところ立て続けに劇場に行っているので週一ノルマをこなせている。だんだんインプットすることにも抵抗がなくなってきたのでいい傾向にあると思う。

今週読んだ・見たもの

・読書
レイモンド・カーヴァー著,村上春樹訳『大聖堂』(中央公論新社)

・映像
『映画ドラえもん のび太の月面探査記』

感想など
・レイモンド・カーヴァー著,村上春樹訳『大聖堂』(中央公論新社)
僕が読んだのは90年刊行の全集版ですが、新たに読むなら改訳もされている07年刊行の村上春樹翻訳ライブラリー版がいいと思う。 著者は短編小説の名手として有名な米国の小説家。ある文芸評論家の人が海外小説のオールタイム・ベストとして、カーヴァーの『大聖堂』と『ささやかだけれど、役に立つこと』を挙げていた。この全集にはどちらも収められている。『大聖堂』については他にも中条省平氏が『小説の解剖学』(これも名著)で紹介していたことを覚えている。

巻末の解説で訳者の村上春樹がこの巻に収められている短編のベスト4を挙げている。『羽根』『ささやかだけれど、役に立つこと』『ぼくが電話をかけている場所』『大聖堂』。ひとまずこれを参考に、この4編に加えて他一編を読んだ。『大聖堂』と『ささやか~』が噂に違わず傑作だったので軽く紹介したい。

・『大聖堂』
 『大聖堂』は、ある男と盲人の交流を書いた作品。ある男のもとに妻の友人である盲人の男が訪ねてくることになるのだが、盲人への偏見も手伝って彼の訪問を快く思っていない。実際に男は彼が訪ねてきても、どこかつっけんどんな態度をとる。対して盲人は気さくな中年男性で、ユーモラスに描かれている。男と盲人の間にいる妻は、盲人に対して確かに優しいのだけど「障害者である」という留保がついていて、どこかに遠慮や過度な気遣いある。このあたりのバランスの取れた筆致も見事だ。
 やがて妻が寝てしまうと、男は盲人と二人きりになる。初めはどう接したらいいのかわからなかった男も、不器用ながら自分の常識が通じない相手と交流しようとする。やがて二人はひょんなことから大聖堂の図を一緒に書くことになり、言葉でも視覚でもない深い交流の場に降りていく。
 今作はピューリッツァー賞フィクション部門の候補作にもなったようだけど、それも頷ける。かといって押し付けがましい感動を強いてくるわけでもない。言ってみれば、そこに描かれているのは男と盲人が一緒に図を書いているだけの情景だ。しかしだからこそ、言葉のない世界で痕跡と触感だけを頼りに交流している様子が心を打つ。男は、盲人が感じている世界を想像しながら、目が見える・見えないという違いを超えて、自分でも相手でもない、しかし同時にどちらでもあるような、自他が融けたような感覚に没入していく。これが無駄な装飾のない、日常的な言葉の積み重ねで描かれることに驚きを感じる。しかも初めは偏見まみれだった男性が自然に変化していくのである。この感覚は小説でなければ経験できないものなんじゃないか。そう思いました。いやはや、傑作です。

・『ささやかだけれど、役に立つこと』
妻が誕生日を迎える息子のためにパン屋でケーキを注文するが、息子は帰り道に車に衝突されて意識不明の状態となってしまう。病床に伏している我が子を心配するあまり両親は判断力はどんどん失われていく。混乱がピークを迎えたときに二人のエネルギーは理不尽にも無関係のパン屋に向かっていく。しかし極限まで張り詰めた緊張感が、ある一瞬、パン屋の一言で弛緩するのだ。あたかも魂が解放されるような浄化の瞬間がやって来る。そこで同時にタイトルの『ささやかだけれど、役に立つこと』というモチーフが浮上してくるのである。
素晴らしいですね。この短編は本当に素晴らしい。僕は『輪るピングドラム』というアニメが好きなんですが、ピングドラムが描いていた「個人の幸せ」(あるいはそれが失われたときの不幸)の形とも通じている。ミニマルなお話を書いている同人作家の方とかにはぜひ読んでもらいたい短編です。そういうものの理想形があると思う。しかしこれを読んでほしい人はすでにカーヴァーくらい読んでいそうであるというジレンマがある。まだ読んでいない方はぜひ。いつ読んでも良いものは良いものだ。

・『映画ドラえもん のび太の月面探査記』
辻村深月先生が脚本を担当すると発表されたときから心待ちにしていた今年公開のドラ映画。
今作は異説メンバーズバッジというひみつ道具を中心に展開する。この道具は世界で「異説」とされている物語をバッジをつけているメンバーにだけ定説に変えてしまうというものだ。バッジをつけて天動説の世界に行くと、世界の果てが現れる。その世界では海には「果て」があり、果てに行くと、実際に断崖絶壁と化した世界の果てから海水が宇宙に流れていくところが見える。劇中には「世界の果て」から船が落ちそうになったところを目撃したのび太が慌てる場面が出てくるが、メンバー以外は地動説の世界に生きているのでバッジを外せば通常通りに海面を運行している船が見えるだけだ。
このお話は「月面にはウサギがいる」とクラスで主張してバカにされたのび太が自分の主張を実現しようとする場面から始まる。バッジをつけて「月の裏側には生命がいる」という異説に依拠し、月の裏側に「地球並みの重力で空気もある」異説空間をつくる。そのように簡易テラフォーミングした月面にウサギの王国を作ろうとするのである。バッジで実現した異説空間はARのようになっていて、バッジをつけている間はその空間に干渉できるが、外してしまえば跡形もなくなってしまう。バッジを外しても空間が持続していることがポイントだ。そこに生命体をつくれば、目を離している間に発展していく。
といったお話で、「異説メンバーズバッジ」という道具を徹底的に解釈して道具のポテンシャルを引き出していく。他にもいくつものひみつ道具が出てくる。矛盾点を潰すために道具を作ったり、要所で道具を壊すことで進行させたりと芸が細かい。


このお話でもっとも重要なのは、「異説メンバーズバッジ」という道具と想像力という言葉をつなげていることだ。この物語にも悪役が出てくるのだけど、悪役に対してただ想像力と唱えてもあまり説得力がない。それはのび太が根拠もなく月面ウサギ居住説を唱えるようなものだ。しかしそうではなく、バッジによって作った成果が「想像力にできること」として描かれ、そのことによって実際に劇中の問題を解決してしまうことに物語の切実な力を感じた。最後にのび太が友達と離別するときにも同じように想像力のちからが強調されるのだが、それは今作が虚構と現実を想像力によってつなぐ物語であることを強烈に伝えてくる。

抽象的な言葉を綺麗事に終わらせず、説得力を持たせて描く。まぎれもなく辻村深月の作品だった。辻村先生の、そしてドラえもんのいちファンとして寄せた期待に充分応えてもらった作品でした。

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