2019年2月第3・4週の近況報告──天冥の標完結、コードギアス復活のルルーシュ

近況など

先週は読書に失敗して書くことがほぼなかったこともあって、更新をサボってしまったので、今回は合併号(?)です。本を読めなかった反省としては、読む本を決めずにその日の気分で読むモノを決めてしまっていたので、行動に入る前に判断をする必要ができてしまったことが原因かな。それによって機械的にノルマをこなせなかったのが大きい。やはり月ごとの振り返りを書き、そのなかで来月読む予定のものを挙げていくと強制力をうまく使えるのかもしれない。次回はそうする。

読書

・小川一水『天冥の標ⅩPART3 青葉よ、豊かなれ』読了

映像

・劇場版『コードギアス 反逆のルルーシュ』三部作(興道・叛道・皇道)

・劇場版『コードギアス 復活のルルーシュ』

感想など

・天冥の標。

シリーズの完結巻。ついに終わってしまった。後述するコードギアスも10年以上前にスタートした作品なので、2019年は伏線回収の年だと思う。それはともかくとして、あらすじにあるような大団円を本当に迎えていて驚きを隠せない。

 正直いえばⅩのPART3の中頃あたりまで具体的にどう終わるのか予想できなかった。もちろん大きな枠組みはあるし、そこに向かって収斂していくことはわかっているのだけど、結末は保証されているとわかっていてもハラハラしていた。これはこのシリーズらしいところなんだけど、最後まで消化試合のような緩んだ雰囲気になることもなく物語がダイナミックに転がっていくので気が気ではないのだ。

 それにしても、今まさに初めから追いかけている人もいるのでネタバレになりそうな情報は伏せるけど、素晴らしい畳み方だった。作中の問題はすべて解決し、キャラクター個人の結末も納得のいくものを見せてもらった。エピローグもサービス満点だ。人が生きていて、そのに意志さえ残っていればどんな絶望にだって打ち勝てる。そう、未来の果てにいるもう一つの人類が教えてくれた。これは、そしてあるいは、私たちが生きているこの世界も愛と希望の物語なのだ。

・コードギアス

 先週唯一見られた映像がコードギアス劇場三部作のうち第一作目だった。最近になって封切られた完全新作『復活のルルーシュ』の評判がよかったので、放置していた三部作を見ることにした。三部作はTVシリーズとは少し変わっている、という程度の事前情報から見始めたのだけど、これが予想以上によかった。

 というのも三部作は総集編やダイジェスト版ではなく、物語の核となる部分を中心に構成しながら独自のアレンジを加えて作られた、れっきとした劇場作品だったからだ。

 一作目の興道はC.C.とルルーシュの関係がTVシリーズよりも密に描かれている。もともと彼らはルルーシュとしての日常とゼロとしての非日常、そのどちらでもない隙間で過ごしているのだけど、その部分が他よりも厚く描かれることで反逆の皇子でもなく、魔人ゼロでもない、それらを含みつつ、そのどちらでもない素顔のルルーシュが強調されている。この線は完全新作の『復活』まで繋がっている。

 二作目の叛道では第一期と第二期の間にあった空白期間を時系列に沿った形で埋めているので、シャルル皇帝の意図が見えやすくなっている。またC.C.とルルーシュが交わした契約についても父と子がギアス(C.C.)を間に挟んで対立している構図が鮮明になっている。C.C.の願いをシャルルが叶えようとするところ、あれは寝取られだよね。しかしそうはならず、C.C.はルルのもとに帰っていく。あと書いておかねばならないのはユーフェミアの存在感ですね。ユーフェミアがあのように死んだことで物語は回帰不能点にまで進んでしまう。ルルーシュには後戻りできない責任を抱えさせ、スザクはゼロ=ルルーシュに対する和解不可能性を決定的にし、ニーナは物語を終わらせる戦略兵器を開発する。もしユーフェミアが死ななければコードギアスの世界は全く別の世界になっていたかもしれない。それほど彼女の存在感は大きい。そうであるがゆえに惨たらしく死ななければならなかったのかもしれない。何度見ても一連の場面は心が痛む。

 第三作の皇道は、大きな流れこそTVシリーズと変わりないが、コンパクトかつコンセプチュアルに圧縮された前二作を事前に見ているため、複雑化した登場人物たちの心理や全体の構図が非常に理解しやすくなっている。ここが三部作の白眉だ。今回の劇場版の良いところは、『コードギアス』の長所でもあり短所でもある複雑さの問題を解決しているところにある。組織の対立や登場人物の対立、あるいは結託によってめまぐるしく変化(重層化・複雑化)していく状況が興奮を誘う一方で、いったん情報をとりこぼすと視聴者は現在地を見失ってしまう。要所要所はわかりやすく描写されているといっても、単純に50話は長いので、そのあいだ変化を追うことは難しい。再構成された三部作は主要なテーマに絞って再構築しているから、「『コードギアス』はこういう作品だったのか!」という再発見を促してくれる。そこがいい。あらためて観られて良かった。

 余談。シャルル皇帝が起こそうとしていたラグナロクの接続と、彼のいるCの世界がどういうものだったか、そしてそれらをルルーシュが「殺した」意味も今回初めて理解できた。過去や神にすがろうとする父=王=神を殺し、そのあとに自らもまた「滅びるべき王」を演じきる、という話。10年前に観たきりだったので三部作がなければ本筋を理解しないままだったかもしれない。

・復活のルルーシュ

 最高だった。ルルーシュが復活すると聞いてどうなるものかと不安になっていたら、そんなモヤモヤを吹き飛ばす痛快娯楽同窓会エンタメに仕上がっていて感服した。あんなの見せられたら手を叩いて喜ぶしかない。コードギアスらしさを踏襲しながら、その後の物語を描いている。素晴らしい。

 この作品についてもネタバレをする気は無いけど、そうはならない程度に書いてみる。そもそもTVシリーズは「反逆のルルーシュの物語」として完璧に終わっている。では続きを描いて蛇足にはならないのか。ならないのなら、それはなぜなのか。

 結論から言えば、これは蛇足ではない。描く理由と必然性があるものだ。『復ルル』はbuzzfeedの監督インタビューにもあったように、かつてのように反逆する対象がなくなった「ルルーシュの物語」を描いている。ブリタニア皇帝やブリタニアが支配する世界を「ぶっ壊す」という目的をもった反逆の皇子は死んだ。そして皇子の死と共に物語の幕も閉じられた。しかしだからこそ、反逆の物語とは無関係に、彼がC.C.の前で見せていたような素顔のルルーシュの物語が始められるのである。

 これはキャラクターや物語に向き合ううえでとても正しいアプローチだし、制作陣の誠実さを感じた。

 ところで僕は、この映画を観たことで、10年前にコードギアスの最終話を観てから心のどこかにしこりを残していた自分に気がついた。それは馬車の荷台で茫然と空を眺めるC.C.の姿だったのかもしれないし、十字架を背負って死んだルルーシュの悲壮な姿だったのかもしれない。あるいはゼロとなったスザクの孤独、兄の意志を知らずに死後その真意を知ることになったナナリーの後悔。無念にも殺されたシャーリーの存在。物語のなかで救われきれなかったものたちに感じていた無念さが心のなかに残っていたことを、それらがこの映画によって救われてから初めて知った。だから、これはもう一つの鎮魂歌である。

 かつてTVシリーズの最後に挙行されたゼロによる既成秩序へのレクイエムは、『復活のルルーシュ』でゼロに手向けられたレクイエムとして変奏され、ゼロ=ルルーシュを中心に集束していた悲劇の記憶を鎮魂する。鎮魂は、すでに起きたことを否定するものではない。悲劇が昇華され、それが別のものでもありうるという可能性を肯定する、未来に開かれた態度だ。

 いかに悪事をなした登場人物だとしても、その枠を外れたら幸せを信じてもいい。

 そう思えることができて本当によかった。

ふせったーにもちょこちょこ感想を書いたので良ければ。https://fusetter.com/mypage
(これ以降文章は無し)

続きをみるには

残り 0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?