見出し画像

傾聴のすゝめ

前回の投稿であんな啖呵を切っておきながら妻に泣かれました…。
しかも土、日と2日連続の休日に。

どうやら私はとにかく「話を聞かない」らしい。
”一緒に話して、一緒に相談して、一緒に悩んで、一緒に決める”
という事が大事なんだと再三に渡って怒鳴られ、泣かれ、話された。

数日経過した今でも、なんとなくでしかわからない。

私は今までの妻のSNSを見ての言動から
「何も言わなくても妻の気持ちを汲み取り、先んじて動ける旦那」が
素晴らしいと思っていた。

「今日は女の子日だから辛いだろう?ほら、温かい白湯と君の好きな刺激の少ない料理を用意して待っていたよ。仕事?馬鹿だな。君の方が大事なんだから、そんなもの適当に片づけてきたよ。」

「たまには一人時間を楽しみたいだろ?大丈夫。子供は僕が見ているよ。一緒にストライダーやりたかったんだ!ちょうどいいだろ?」

みたいな。でも違ったらしい。
…いや、実は前に「何でもかんでも聞かないでよ!わかるでしょ?」と
言われた事がトラウマになっているのは秘密だ。


私は「人は感性を共有できず、感情も共感できない。孤独で独立した存在」だと考えている。故に、私が愛してやまない妻ですら何を考えているのか
わからないし、何をしてほしいのか、何を言いたいのかわからない。

例えば、「食べ物を前にして涎を垂らしていた場合」、多分、おおよそ、
「お腹が空いていてそれを食べたい」のだと解釈はできると思う。

だが、ほんとのところはわからない。
ひどい歯槽膿漏で歯が痛くて、触らなくてもいいので舌先でいじっていて、
その目線の先がただ食べ物があっただけで、舌先で歯をいじる事に集中して
涎を垂らしていたとしたら、そんな状態で飯なんて食べたくもないはずだ。

こういった推測は自分の経験と照らし合わせる訳で、察しがいい連中というのは、きっとお腹が空いている=涎を垂らすという”大方そうであろう”という
推測が成り立つ人間であって、私は察しが悪い類の人間で、”お腹空いているのかな”となるところを自分の実体験から”いや、歯が痛いのだろう。ほっておこう”となる人間だったのだ。

つまり、「一般論を自分に落とし込めない症候群」なのだ。

だからこそ、機械的に、習慣的に、彼女が今まで「やってほしい」とお願いされた事やルーティーンの中でやらなければならない事を学習して、動いていたのだが、どうやらそうではないという事に結婚10年目にして気付かされた。

彼女は”答えのない不安・苛立ち・絶望・疲労”を共有する事を望んでいる。理解はできる。が、その事象に対してどうしてもやれないし、なんて声をかけていいかもわからない。ただただ聞かされた側が困惑するだけ。
ただし、「それ聞かされて俺は何をすればいいの?」とは一度も言ったことがない。これだけは偉いなと思う。ただ、どうしてもそれを解決するためにはどうしたらいいかを考えて、口をついて出てしまう。するとこうなる。

「そうじゃない!話を聴いていない!もういいよ!」と。

妻のいる福祉業界には「傾聴の心」という言葉があるようだが、私には難しい。
”聞く事”はできる。だが、”聴くこと”となると別だ。
私の場合、聴くとなると詰問しているように相手方に思われるようで、それはそれで嫌なものらしい。

何よりその人の葛藤には寄り添う事をせず、話題の問題点を解決する為に、頭の中ではロジックを構築している最中だ。多分、そこ。そこなんだとは思うが。つい。うっかり。いつも通りにやるとこの顛末だ。

うーん。傾聴かぁ…。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?