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ウィリアム・シェイクスピア

“王者に安眠なし”


このシェイクスピアの言葉は
正しいものである。

王、王者、始皇帝、独裁主義者等、
王者と言っても色々なタイプが存在する。

しかし、真の王者には安眠など
出来ないという意味である。

つまりは、国民の声を聞き、海外との交流、
外交、戦争、停戦条約、国益、安全等、
これらの最終決定権は王に託される。

例えば、日本の幕末の薩摩藩、大久保利通は
親友であった西郷隆盛を殺さなければならない
事態になった。彼らは親友であったため、
彼の苦悩は非常に大きなものだったが、
決断を下すしか無かった。

その後、政府の要人として大久保利通は、
国のために尽くした。
彼の死後、遺産処理をした時、彼には
多大な借金があった。

しかし、それらのお金は全て国を良くする
ために使われていた。
政府の高官にはなったが、国を立て直す
難しさは、予想を大きく上回っていた。

この借金は国に使われた為であった事が
判明し、国がその借金を背負う形になった。

彼は王者では無かったが、王者とはつまり
そういう事である。

自分の事は後回しにして、全ての時間を
国のために使う者こそが、真の王者と言える。

シェイクスピアのこの言葉は、
そういう王者を指した意味である。

中国の春秋時代、長い歴史の中で、覇者という
存在が希ではあるが、生まれた。

その存在はまず、どこの国からも認められる
強さ、人格者、正義を持った人だけが成れた。

私の知る範囲では5人であったが、
荀子は他に2人の覇者の名を挙げていた。
これにより、7人中、5名が覇者と言える。

覇者となった王は、国々の争いを治めたり、
外敵からも守る事が義務付けられていた。
その返礼として、毎年、貢ぎ物を各国は
覇者に献上していた。

当然ながら、この覇者の中に始皇帝は
入っていない。彼は武を以て統一したからだ。
始皇帝に仕えるのは本当に難しい事だった。
彼の異常なまでの人間不信は、恐ろしいもので
あった。

一応、これを書くにあたり、将軍の名前を
忘れてしまったので、調べてみたが、やはり
相当、史実とは異なるようで参考には
ならなかったので、名前が出て来ない場合も
ある事を先に謝罪しておきます。

始皇帝になる前、政という名であった。
政の秦という国は、食糧難でもあった。
そこで政は、兵力を半分にするよう配下に
命じた。

その点に於いては、兵士が半数になれば
それだけ弱くなるのでは?と思った家臣
は大勢いたが、その予想を裏切り、
兵士を半数にしたほうが戦に強くなった。

しかし、兵士としてはいきなり解雇され
その数は10万人とも言われていた。

そこで│樊於期《はんおき》という秦の将軍は、
政に対して意見した。
何事もそうですが、もう少しゆるりと兵士数を
減らしたほうが兵士たちにとっては助かります。
と彼は進言した。

政はこの言葉を聞いて、秦には食料が少ない。
無駄な食い│扶持《ぶち》に与える食料は
無駄になるだけだと言って、樊於期の進言を
退けた。

樊於期が政の前から去った後、政は配下を
呼びつけ、樊於期もろとも一族を皆殺しに
するよう命じた。

配下は驚いて、そこまでする必要があるので
しょうか?と尋ねた。
政は意見を言わなければ動かない気か?と
配下に言うと、配下はすぐに謝罪して行動に出た。

しかし、樊於期はそのまま家には帰らず、
友人宅で愚痴をこぼしていた。
そこにいる時、一族が囚われた事を知り、
友人は樊於期に逃げるよう伝えた。

そして樊於期は燕に亡命した。
燕に逃げたのには理由はあった。
政は燕に対して、人質を出すよう要求し、
燕の太子であった│丹《たん》は幼少期に
政と共に人質であった時、友人として
接してくれていたので、悪いようには
ならないだろうと思い、成長を遂げた丹は
秦の人質として向かった。

しかし、政に対して、
「お互い人質だった時の事は忘れていません。
立派になられた事を心より嬉しく思っています」
と丹が言うと、政は人質の身分でありながら
口が過ぎるぞと、丹は旧友だと思っていただけに、
屈辱を感じて、丹は勝手に燕に戻っていた。

つまりは秦とは友好的な関係では無かった事もあり、
樊於期は燕に亡命した。
燕の家臣たちは樊於期を秦に送り返すべきだと進言
したが、丹は樊於期を自分の住まいに住まわせた。

政は家臣から丹が燕に逃げた事を告げると、
どうせ潰す国だからほおっておけと命じた。

秦でこの人無しでは天下統一は出来なかったであろう
将軍は主に2名、│王翦《おうせん》将軍と、
白起将軍になるだろう。
内政面ではやはり丞相になった李斯の力が大きかった。

秦は韓非と李斯の力により、強国へと変わっていった。
王翦は政に仕える難しさを良く理解していた。
最後に楚を滅ぼす時、朝礼での会議で、
王翦は楚と戦うには60万の兵士が必要だと言ったが、
若く勢いのある李信は20万もいれば十分だと答えた。

政はこの時、王翦はもう年だからと言う安易な理由で
李信に20万を預けて楚へ向かわせた。

この時、王翦は自分の意見が通らなくなった以上、
政に仕えるのは危険だと判断し、体の不調を訴え、
地元で暮らしたいと願い出た。

政はアッサリと快諾し、王翦は自分の領土に戻った。

しかし、李信は大敗をし、政はすぐさま王翦の元まで
出向いて行った。そして、出陣の指揮を執るよう
願い出た。

政は実に分かりやすい性格をしていたが、
油断をすれば樊於期のように皆殺しにされる事を、
王翦はよく理解していた。
その為、わざと勝利した時には褒美として、
領土を頂きたいと願い出た。
そして兵士は60万いないと勝てないとも言った。

この時、秦の全兵力は約60万であった。
政の配下たちは、裏切られたら終わりだと
話していた。

この辺りは日本とは違って、命令の印である割符など
がある場合、兵士は例え王を裏切るとしても、その証
がある者の言う事を聞く点が、大きな違いがあると
言えるだろう。

そのため、政の配下は王翦に60万与える事に対して、
不安が過ったという訳である。

王翦は進軍中にも政に使者を送り、勝利すれば約束通り
領土を頂けますか?と何度も使者を送った。
それは政の性格を熟知していたから、そうしていた。

ある時、息子から褒美の要求に対してやり過ぎでは
ないですか?と王翦は聞かれた際、
褒美のために頑張っていると思わせるために使者を
送っているのだと答えた。
政は人間不信ゆえに、そうする事により、褒美の為に
勝利する気勢を上げているのだと思わせる為に、
使者を送っているのだと、息子に言うと納得した。

政に仕える事は難しいとも、その時話していた。

王翦は勝利し、上手く政の性格を見抜き、珍しく悪く
無い人生を送ったが、大抵の人はどんなに優秀でも
酷い状態で最後を迎えた人のほうが多い。

話を戻して、樊於期将軍の話の続きをしよう。
燕の太子であった丹は、政の暗殺を考え、
それを街にいる賢者に相談した。

この時、相談した相手は老人であった為、
その老人は見所のある人物を紹介する事になった。
これが2度目の政の暗殺者である│荊軻《けいか》の
話になる。

荊軻は人生を挫折して、悠々自適に生きようと
していたが、そんな自分を高く評価してくれている
老人の願いを聞くべきか迷った挙句、秦王の暗殺を
最後に飾るのも悪く無いと見て、承諾した。

彼は暗殺に必要な、度胸もあって信頼できる友に
手紙を送った。そして当時の政の政権下では、
配下といえど、近づけば死罪だという法律があった。
それを利用して、猛毒の小さな短剣を燕が秦に
差し出す領土の絵図の中に仕込み、少しでも傷を
負わせたら殺せるようにした。

荊軻は友を待つ間、丹から日々、贅沢極まる接待を
受けていたが、秦の領土が広がる中、不安になって
きていた。

そこで若い頃から人殺しをしてきた男を用意して、
荊軻にこの者を供にしては?と話を持ち掛けたが、
度胸と勇気があって信頼できるものでないと
成功させる事は難しいと説いたが、丹は頭を下げて
頼み込んだ。

荊軻は燕の太子である丹が頭を下げる姿を見て、
これもまた人生よと思い、出発する事にした。

しかし、秦の法律では近づく事は許されなかった為、
どうしても必要なものがあった。
それは樊於期の首であった。
樊於期の首を持参すれば、近づける事を利用して、
絵図を見せて、供の者に政を押さえつければ、
間違いなく成功すると荊軻は見込んでいた。

しかし、丹はそれは出来ないと言った為、
荊軻は直に樊於期に事の詳細を伝えると、
自分の命1つで秦王を殺せるなら安いものです。
と言って、彼は自決した。
荊軻は樊於期の首を持って、友は間に合わなかった
為、丹の連れてきた者を連れて秦に行った。

そして樊於期の首を見せると、喜んだ。
自分に逆らう者は誰でも容赦なく殺すのが政であった。

王翦と共に秦に尽くした白起将軍も、最後は政によって
自決させられた。

荊軻は絵図を見せつつ、刃物を手に取ると、襲い掛かった。
この時、供の者が勇気ある者であったならば、暗殺は成功
していたが、供の者はただの人殺しでしか無かった為、
恐れて動けなくなっていた。

政は帯刀していたが、あくまでも権威を示す為の剣で、
実用性に欠けていた。切れ味も悪く、抜くには長すぎる剣
であったが、荊軻はその剣で突き刺され、滅多切りにされ
暗殺は失敗に終わった。

こうして始皇帝は誕生したが、三度目の暗殺をした張良も
失敗したが、結局、天下統一してすぐに死んだ。
一瞬の天下取りだけであった。
人を見る目は無かったと言えるだろう。

そして、覇者にも選ばれなかった程の人物でしか無かった。
“王者に安眠なし”

政は確かにこの言葉に当てはまるが、意味は全く違う。
この言葉のように仕事は全て自分でしていたが、
それはただ単に、人間不信から来るものであって、
人を大事にする事は無かった。

春秋時代では家族と言えど殺し合いをするような
世の中であった。つまりは誰も信用できないという
事になる。

しかし、覇者の遺言に関しては、覇者はもうこの世に
いない状況でも、覇者の言葉通り国は連携を取って、
遺言を果たした事もあった。

春秋時代の覇者とはそれほどまでに優れた人物たち
であった事は、このような事例から察する事は出来る。
歴史に書いてある事は、全て事実では無い。

それを限りなく事実に近い事を知るには、
彼等の行動から逆に時代を│遡《さかのぼ》る事によって、
事実は見えてくる。

人がいう事や、ネットに書いてあるのは、何の根拠も無い
情報がほとんどである。歴史家に至っても同様に、
事実を知るには多くの他の知識も必要となる事を
理解していない為、多くの勘違いは生まれてきた。

今、この現代に於いても、解らない事だらけなのが現実で
在る以上、昔の事を知る事は相当な知識と賢さが無ければ
無理だと言えるだろう。

それでも歴史を知りたいと思うのであれば、
まずは現代の世界から紐解いていくのが一番の近道だと
言える。

シェイクスピアはそれをよく理解していた。
そうでなければ“王者に安眠なし”などの言葉は
生まれる事は無いのだから、良き理解者の一人だと
断言できる。


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