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呂不韋、嫪毐、政に絞って語ってみる

始皇帝となった政の実父である可能性が非常に
高い呂不韋であるが、子楚に目をつけて投資した
のは、滅多に無い事である。

歴史を遡って、現在でも個人が、個人に投資する
例は正直見た事は無い。
金貸しは呂不韋もしていたが、一個人に投資を
と考えたのはある意味、凄い事である。

しかし、彼は自分の命を自分で捨てる結果と
なってしまった。子楚に投資した時は何とか
王にまで持っていったが、趙から脱出を図った時、
その時にもう未来は決まっていたのかもしれない。

呂不韋は子楚を王とした時、│相国《しょうこく》に
なった。相国とは王に次ぐ最高職であった。
そして洛陽に10万戸を与えられた。
1戸は一軒家と見なして問題はない。
つまりは10万の家がある領土を与えらえた訳だ。
彼の投資は見事に成功したと言える。

しかし、子楚は在位三年で死んでしまい、
政が跡を継ぐ事になった。
普通は政の配下的存在で、上役は変わる事も
多かったが、呂不韋は政から│仲父《ちゅうほ》と
呼ばれ、父のような存在として、その権力は益々
強くなっていった。

他国にも知られる程、名前は売れた。
同じ時代に生まれていた│孟嘗君《もうしょうくん》や、
信陵君《しんりょうくん》と言った春秋時代の四公とも
呼ばれていた非常に有能で、人徳のある人物たちの元には、
大勢の食客と呼ばれる、今で例えると難しいが、
住み込みで養われ、困った時の相談役や、他にも一芸に
秀でた人物たちを集めていたりした。

後に三国志で曹操が真似をして、一芸に秀でた者を
召し抱えたのは、この四公から学んだ事であった。

四公たちは、それぞれ約三千人の食客がいたと言われている。
それに対し、呂不韋には莫大な財があった為、
約1万人の食客がいたと言われている。

彼等は戦争が起きれば、従軍し、色々多方面で活躍する
ようになっていた。四公と呼ばれていたのは、
公子、つまりは王家の血を引く者たちであった事から
そう呼ばれていた。

呂不韋の食客の中に李斯がいて、彼の賢さは並外れていた
事から、政に推薦してからは、政の下で働くようになった。

呂不韋は元々は商人であった事から、名声を得たいという
願望が生まれ、食客たちに「│呂氏春秋《りょししゅんじゅう》」と言う
孫子の兵法書等のように、更にその名を広める為に、
町に立て札を立てて、
「一字でも減らすか、増やすか出来る者には、千金を与える」
と、書いて、読ませる目的も兼ねて、その書を広めようとした。
一字千金の語源はこれに当たる。

ただ呂不韋には不安の種がずっとあった。
それは政の実母である、元、呂不韋の妾の男好きさが強く、
政が王になっても、その関係は続いていた。
呂不韋としては、関係を断ちたかったが、その時はもう
相手の方が身分的には上だった為、断わる事が出来ず、
関係は続いていた。

それは政の耳にも入ったが、呂不韋は夫であった子楚が
亡くなり、寂しさを紛らわせる為に行っていると言う事に
していたが、政の人間不信さは並みでは無かった事から、
既にこの時点で不信に思っていた。

呂不韋はこのままでは非常に危険な事になると察して、
何とか手を打たねばと考えていた矢先に、
嫪毐《ろうあい》と言う者が巨根で知られ、宴の余興に
よく自らの一物を軸に馬車の車輪を回して見せていた。

呂不韋はこの嫪毐に目をつけて、自らが主催する宴に
嫪毐を招き、いつもの一芸を披露するよう命じた。
この時、嫪毐はただの巨根の持主であっただけで、
身分は低かった事もあり、自分の持ちネタとして
披露していた。

呂不韋は密かに政の母である太后となった趙姫に、
嫪毐と言う者が巨根の持主である事が耳に入るよう
手を打った。

そして呂不韋は趙姫に呼び出され、嫪毐という者の
事を尋ねた。そして自分の手元に置いておきたいと
趙姫は願ったが、問題が一つあった。
それは、太后の身の回りの世話をするのは、
女中と、│宦官《かんがん》という男性器を切り取った
者しか、周りに置いておく事は出来ないと、
定められていた事だった。

当然、趙姫はそれでは意味が無いと言ったが、
男性器を切り取った場合、ホルモンバランスが崩れる為、
髭なども生えてこなくなり、体つきもふくよかな体に
なっていくものであったが、嫪毐は元々、体つきは
宦官に似ていた為、髭だけ気をつければ男性器を
切り取らずにおいてもバレないと呂不韋は進言した。

その上、宮刑つまりは去勢する刑罰をでっち上げ、
執行されたという記録を作り、裏工作までした。

これにより、呂不韋は趙姫から呼び出しをされる事は
無くなった。毎日のように趙姫と嫪毐は性行為を
繰り返していたので、当然、子供も出来るようになり、
その度に、趙姫は一族の墓参り等の理由をつけて、
政の目の届かない所で、出産を繰り返していた。

そして嫪毐に対して、文句を言えないようにする為、
政に伝えて、身分を普通では有り得ない早さで
上げていった。

政は元々、人間不信の塊のような人物であった事から、
当然、不信に思ったが、実母であるが故、他のような
者とは違い、言及出来ずにいた。

それに加え、人間不信の政に対して、配下の者たちは
趙姫と嫪毐の関係を知っていても、なかなか進言出来ず
にいた。彼が三度に渡り暗殺未遂されたのも、少しでも
不信を抱くと、その相手が例え将軍クラスの配下でも、
殺す指示を出していた事から、言い出せずにいた。

その間にも嫪毐は趙姫によって、どんどん出世していき、
終には呂不韋に次ぐ身分までのし上がった。
ここまで来ると、流石に事実を知る者は政に告げる事と
なったが、事が済むまではその密告者を捕えて、事実か
どうか確かめるまで拘束される事になった。

政に知られた事は、嫪毐も内偵により太后との密通が
露見した事を知り、嫪毐は│御璽《ぎょじ》と太后の
印璽を盗み出して、兵を集めて反乱を起こそうとした。

兵士は基本的に御璽などの印鑑により、行動するもので
あった。それが例え、反逆行為でも御璽の印があれば
兵士を動員する事は出来た。

政は当然ながら、全てを見抜いており、いつ反乱が
起きても問題なく処理する準備は出来ていた。

政は楚の公子であった│昌平君《しょうへいくん》と
昌文君《しょうぶんくん》に命じて、あっさりと
│咸陽《かんよう》の地で敗れ去り、逃亡を図ったが
捕えられて、重罪者に見合う八つ裂きの刑により、
処刑された。この刑は手足を馬や牛などに繋いで、
腕や足を引き千切る刑であった。

そして嫪毐の一族は全て処刑され、太后との間に
出来た二人の子供も処刑された。

太后は幽閉されたが、他国からの使者に、実母を
幽閉されたのですか? と聞かれた政は、それを
否定した。使者はそれを聞き、
「秦たる大国が間違いを犯しているとの噂を
聞きましたが、やはりただの噂であったようで
一安心しました」と政は言われた。

そして、すぐに実母を再び宮廷に戻した。

しかし、このような国内での反乱に関わった
者たちの中に、当然ながら呂不韋も入っていた。
嫪毐を勧めたのは呂不韋だと知られ、反乱には
加担しなかったものの、宦官と偽って宮廷に
入れた罪等により、連座制に│則《のっと》り、
処刑されるものであったが、これまでの功績に
より罪は赦された。そして相国の罷免と│蟄居《ちっきょ》
を言い渡された。

この連座制は更に時代を遡って、秦を強国にした
商鞅が定めた法であった。

政はこれで相国は力を失うと考えていたが、
呂不韋の名は既に天下に轟いていた事もあり、
連日、各国からの使者が絶えない状態だった。

それを知った政は呂不韋が他国と共謀して
反乱を起こせば、嫪毐など比にならない程、
危険だと考え、呂不韋に対して詰問状を
送りつけた。

その内容は、簡単に言えば嫪毐を介しての
罪を更に問い詰めたものであって、如何なる
理由を以て、10万戸も保有しているのかと
言った内容で、呂不韋に蜀への流刑を
追加されたものだった。

当時の蜀は三国志とは違い、行ったら二度と
戻れないとされた地であった。
呂不韋は自らの末路に絶望し、自殺して果てた。

これは後の事ではあるが、│劉邦《りゅうほう》の正妻
となった│呂雉《りょち》は呂不韋の一族であったと
言う学者もいるが、実際の所は分からない。

これは付け足した事にはなるが、│兵馬俑《へいばよう》に
関して勘違いしている人が多いので、ついでに話しておくが、
政の時代よりもかなり遡った時代に、非常に人徳のある秦王
がいた。

その王が死去した際、大勢の有能な人材が後追い自殺をして、
秦の中枢は壊滅的な打撃を受けた。
そして、次の王が死んだ時にも、また有能な人材が後追い自殺
をし、その次の王の時もまた後追い自殺をし、秦の力は急激に
弱まった。

そして、秦での法律として、後追い自殺をした者の一族も処刑
すると定めた。その代わりに兵馬俑が生まれた。
あれは元々は、権力誇示の為のものでは無かった。
政が始皇帝となり、政の性格も加味すると兵馬俑が
多かったのは当然とも言える。
水銀の湖や、財宝の量等から見ても、天下に見せつける為に
造った宮殿等を見ても、兵馬俑が多かったのは納得のいくもの
であった。

春秋時代が長く続いた理由は、日本の戦国時代では
考えられない方法を取っていた。
仮に敵の国を制圧しても、数年間程度は自領土とし、
その国の血族を従属として王に任命していた。

これにより、当然ながら従属しない国も出てきたりする
事になり、主な春秋時代は約300年続く事になった。
しかし、時代を遡れば春秋時代はまだあった。

なので、秦が強い時もあれば、弱い時もあった。
秦、楚、韓、斉、趙、魏、燕の7ヵ国で戦っていたが、
日本のように長い細い国なら、統一も早まるが、
中国は丸いような状態である為、統一するのは
難しいものでもあった。

このいずれの国も、強い時もあれば弱い時もあった。
その中でも日本では異例と思われるが、覇者という
他の国がその国の王の人徳や強さ等を認めた時にだけ、
覇者として君臨し、天下の事を取り仕切り、
他国の争いを仲介したりしていた。

しかし、統一者では無かった。あくまでも誰もが認めた
王が覇者と定められた。約300年の間に覇者となれたのは
5名だけであった。

その中に政は当然ながら入っていない。




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