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「もし、私が人より遠くを見ているとしたら、それは先人の肩の上に立っているからだ」アイザック・ニュートン(自然哲学者・数学者・物理学者・天文学者・神学者)

この言葉は哲学者なら絶対に考える道でもある。
私自身も二十代の頃に考えたことがある。
同じような事をアインシュタインも言っていると
後に分かったが、ニュートンも言っていた。

この意味は実に簡単である。
そして誰しもが知らずに実行していることであり、
人生は皆、これに該当すると言えるだろう。

昔から人は人間であるが故に悩んできた。
幸せも色々な形で訪れるのも、人間の特徴である。
何でもいい、何か一つ趣味的なものを見つけ、
それに没頭することが出来たなら、
その時点でこの言葉の該当者となる。

理由は簡単だ。
人は確かに新たな文明開化をし続けては来たが、
人間の本質が進化を果たした事はないからだ。

あらゆる動植物の中で、人間ほど恐ろしい生物は
現時点では存在しないだろう。
それは人と言う生き物は、いざとなると何でも
してしまう人が大半を占めているからだ。

これまで、それを証明するかのような事が、
何度もあった。飛行機の墜落事故で一面積雪の中、
元気がある人は命懸けで山を下りて救助を求めて
行ったが、生死も分からぬまま時間だけが過ぎていった。

その時、食料は既に尽きていて、
凍った死体の肉を食べる人と、食べない人が出た。
その時、食べた人は生き残り、食べなかった人は死んだ。
その後、死んだと思われていた下山した人が、
救助隊を呼んでくれて助かった。

そして助かって元気になった後、
当然の事ながら、倫理観が問われた。

倫理観とは、簡単に言うと、道徳やモラル、
善悪や正邪に対する判断力などの事を言う。

中国などでは春秋時代の名残のように、
人を食べるという習慣が残った。
今や先進国であるため、そのような行為は
秘境くらいでしか行われる事は無いだろうが、
戦の籠城戦などで、人の死体を食べて戦った
記録は残っている。
時には自分の子供と、他の人の子供を取り換えて、
自分の子供は食べれないという理由で、
他人の子供を食べた時もあった。

これは私的な予想だが、春秋時代は長きに渡り、
おそらく節目の戦国時代の中では少なくともアジアでは
一番長い間、戦国時代だった。
多分、世界一長い戦いをしていたと思う。

その為、このような習慣が身につき、
特に人里離れた村などでは、今も残っている
であろうと思われるが、現代に於いては
そういう話は聞かなくなった。

しかし、歴史的には確かにそういう文化が
春秋時代にはあった事だけは確かな事だ。

人間は時と場合により、善にも悪にもなる
何とも珍しい生き物だ。
愛の形でも、「愛しているから殺した」などの
事件も以前はあったし、
一般的な意見から見ると、
愛しているのに殺すはずは無いと言える。
私もそう思う。

しかし、幸か不幸か、私は実体験でそれを知る事に
なった。私の仮の家族だからこそ助かったが、
この話を知り合いの警官にした所、
「私の予想通りだと思います。気を付けてください」
と言われた。

父も母も弟も私も、
それぞれの事はあまり知らずにいた。
うわべだけの付き合いをしている感じだった。
お互いに信用せず、警戒するほどの関係だった。

父はある時、私の部屋に来た。
PCの事を聞きにくる事はあったが、私用で来た事は
1年に1度か2度あるくらいだった。

何の前触れも無く、父は普通に話してきた。
手には木製のバッドが握られていて、
「ワシが押さえるから、これで弟を殴り殺せ」と
唐突に悪びれる事もなく、言ってきた。

突然の事で一瞬、脳が揺れる感じだったが、
私は、母親の気分次第で、精神病院から入退院
を繰り返しさせるから治らない事を知っていた。
当然、父もそれは知っていた。

私は「あのイカれたクソ婆を制御しろ」と
言った。「どういうつもりで殺す気になった?」
と聞くと、黙ったままその場から立ち去って行った。

しかし、父は医者で私の地元では有能な医者では
あった。薬も出来るだけ出さなかったが、それは
お金があったからであっただけで、稼ぐ気は
無かったからだった。

その時、見た父の目は、いつもとは違っていた。
何というか、言い訳に困ったような目をしていた。
だから私は警官に相談した。

父に弟を押さえつける力は全く無かった。
弟は背も高めで痩せていた頃は強かったが、
太ってからは体力が持たず弱くなっていた。

父は癌で痩せて、パーキンソン病にもかかって
いた。発症しても私生活に問題が生じるには
約10年かかる、脳の病気の中では比較的、
特に問題視されていない病気だった。

父は勉強は出来るが、決して賢い人では無かった。
そして人嫌いなほど、友人も幼馴染の一人しか
いなかった。
そう、そこがポイントだった。
人間関係を築く事が苦手だったのは父と弟だった。
その為、突然、直球で、殺せと言って来た。

私と弟はどちらかというと不仲ではあったが、
会話は全く無いし、会う事も無い程度で、
特に問題はなかった。
そして仮に弟が邪魔なら、精神病院に一生入れる
事も可能であった。何度も何度も何度も何度も
入退院を繰り返すことができたのは、
私の父が医者であり、一族にも医者が多かった
からだった。

医者の世界は横繋がりと縦社会の世界だった
ので、精神病院の院長は「入院させるべきだ」
と言っていたが、強くは言えなかった。

父は自分では何も出来ない典型的な医者だった。
そしてめんどくさがりとしても一流だった。
そんな人が、危険を冒してまで、弟を殺す理由を
私は考えた。

翌日、私は答えを得て、以前、話を聞いてくれた
警官に相談した。
私の予想は、「弟を私に殺させて、そのまま私を
犯人として逮捕させる」という結論に達していた。
話を聞いた警官は、自分もそう思いますと言った。

陪審員制度なら100%勝ち目は無い。

私はその時、父の本当の素顔を始めて見た。
しかし、父が二十歳かそのあたりの頃は、
財閥解体されたとは言え、現金は蔵の中に
眠っていた。今の金額で約1兆円は最低あった。

何でも思い通りになる世界で生きて来た父は、
兄弟のトップである長男だった。
今の時代ではその風習は消えつつあるが、
当時、その立場は正に王そのものだった。
弟や妹も絶対服従で、それは父が死ぬまで
ずっと続いていた。

携帯電話の使い方さえ解らずに解約した父が、
保険の解約など出来る訳が無いのに、
全ての掛け捨て生命保険を解約した。
死を直前にしての行動だった。

東京からわざわざ弟の叔父を呼び出す必要は
無いのに、病院を休んでまで広島に来させた。
既に叔父によって、
入院の手配は済ませていたのにだ。

歩く事も出来るし、家政婦さんも2人いて母も
いるのに、わざわざ呼び出す理由は全く無かった。

頭の悪い父は、最後に一番考え抜いたんだと
思った。
私は父が入院する三ヵ月前から毎日、
21時から0時まで、涙を流しながら、
正しい道を説いたが、無駄だった。

病院に入られたら面会謝絶にされ、もう私が
文句を言える事はなくなるが、
父は死んだ後の事を考えたんだと思った。

当時の私は疲れ切っていた。
平然と甥である私を父と共に騙そうと
していた叔母や叔父に失望していた。

仮にも甥である私が、私だけが正しい事を
言っているのに、私が父に騙されていると
気付いた叔父と叔母は、それに同調するように
私を騙して、裁判に出さそうと必死だった。

没落した親族を潰すためには、私だけが
働かされていた事から、
一度は私から縁を切ったが、利用価値がまだ
あると知り、あらゆる手を使われ、
私は騙された。

父が死ねば、保険金や遺産分配がなされるはず
だったが、母は遺言書があった事を、
半年も黙っていた。
母が全てを相続するようになっていた。

しかも代理人を通して、私に父の葬式に出ろと
まで言ってきた。脳裏に行って親族全てを
殺して自殺しようとも考えたが、
事実を知らない人もいる中で、それをすれば
無関係の人まで被害が出るかもしれないと、
考え、歴史で同様の怒りを実行に移した、
伊達政宗や春秋時代の王の事を考えて、
何とか行かないと返事を返した。

私は非常事態にいつも助けられる。

「もし、私が人より遠くを見ているとしたら、
それは先人の肩の上に立っているからだ」

ニュートンですら、そう思わされる事が
あった。おそらく何度もあったのであろう。

そうして自己啓発し続ける事によって、
多くの偉業を成し遂げたと言える。

しかし、その度に自分に対して
失望したのかもしれない。
言葉からはネガティブな想いが
にじみ出ているからだ。

敗北する度に、確かに強くはなれる。
その後に勝てばの話だが。

私に翼を与える事を恐れた父は、
良い読みを最後の最期でよく見抜いたと
思った。

不出来な父にしては最期に
禁断の知恵の実をかじったのだろう。

どんな困難に遭おうとも、希望は必ずある。
それを掴もうと前に進むか、
逃げて迷子になるかのどちらかである。

結局は自分次第で何事も決まる。


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