見出し画像

キタダ、詩を読む。…VOL.12 100年の時を隔てて ~雪の短歌2首~


今年も、冬のさなかとなっています。
中村草田男の名句「降る雪や明治は遠くなりにけり」(『長子』昭和6・1931)もそうですが、雪って、現在を一瞬過去にする装置。
ふと、雪を歌った2首の短歌を思い出しました。

○君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ  北原白秋(『桐の花』1913年)
○それでも僕は未来が好きさしんしんと雪降るゆふぐれの時計展  山田 航(『さよならバグ・チルドレン』2012年)

2首の間には100年近い歳月が横たわっています。
それぞれの歌を産み出した時代相や、音韻面の特徴などにふれながら、2首を読み比べてみようと思います。


それではまず、白秋の歌です。
「君」(これは有名な愛人の松下俊子のことです)に呼びかけながら、
雪に対しても「林檎の香のごとくふれ」と呼びかけている。
雪を擬人化し、自分と彼女をきよらかに祝福せよと言っているのだと思います。
白秋自身、ゆるされぬことをしているという自覚があるので、
ひとから祝福してもらうというわけにはいきません。
ひとではなく、雪からの祝福を…。
時間帯は朝。それも早朝。
早朝の雪。
それはあかるく、しかも秘密の雰囲気があります。
朝は朝でも、もうすこし時間が経って昼近くなってしまうと、もう遅すぎる…
白日のもとにさらされてしまって、
ゆるされぬ逢瀬の相手を送り出せる時間ではなくなってしまうでしょう。
この歌の「朝」は、そうなる前のひそやかな秘密の時間。
朝のあかるさが来たけれど、でもそれは別の非日常的なあかるさ、雪景色によってぎりぎり閉じられている。
雪だけが、自分達を見ている。
雪に包まれて、自分達「だけ」がいる世界。
外の世界とは切れた歌だという気がします。
雪だけが、ゆるされぬ二人の目撃者。


この歌のうたわれた明治末年は、石川啄木が「時代閉塞の現状」と呼んだ時代。
富国強兵、日清戦争、三国干渉、日露戦争、大逆事件…とすすんでいき、
国家のベクトルと個人の生き方がどんどん乖離していった、そんな時代です。
それが、知的な人びとの「近代的自我」の悩みを深めていった。
文学的な風潮でいえば、病的な方向で自我に沈潜していったり、
自己の生活の切り売りに走ったり、
そして、白秋のように社会から逃避し、ゆるされぬ関係に浸ったり…
あやうい意味での「個人的」な時代だったといえるのではないでしょうか。

✳️✳️✳️✳️✳️✳️✳️✳️✳️✳️✳️✳️✳️✳️✳️✳️


白秋の歌からざっと100年近い歳月が流れて、
現代の、山田さんの歌。
白秋の前掲の歌には感じない、「見る」人としての目がきわだっています。
現代的で、どこかさめた「目」です。


「とけいてん」をWordに入力すると、最初に出た変換候補は「時計店」でした。
はっとして直しながら気づいたのですが、
時計「店」だと最新の時計。
でもこの歌は、時計「展」。
ということは…きっとアンティーク、骨董品としての時計「展」でしょう。
私の個人的イメージでは、アンティーク時計と言えば停まった時計のような気がするのですが、
この歌の中のアンティーク時計は、もしかしたら動いているのかもしれません。
いずれにせよ、おびただしい「過去」の匂いのする時計たちを、
「僕」は見つめている。
そして時刻は「雪降るゆふぐれ」である。


…白秋の歌の「朝」は、白日照らす時刻につながっていこうとはしない、
「できるならずっといま(愛人との逢瀬)を楽しんでいたい」そんな時間としての「朝」でしたが、
山田さんの歌では、はっきりと「未来」が意識されている。
しかしながら、ただいまの時刻は「ゆふぐれ」であり、
このあとひとまず「夜」に入っていかなければならない…。
これも時代相が現れているように思います。
手放しの夢を持ちにくい、どうにも不透明で不安な要素をぬぐいきれない、いまの時代。
しかし「それでも」、生きている以上、たとえ小さくても、着実に、そしてしたたかに、
(これからやってくる夜のさなかの…または夜のむこうの)「未来」を生きようという、
現代の青年たちの心のありようが歌われている。
そんな読み方もできそうです。


それから、ぜひふれておきたい音韻的な特徴。
「それでも僕は未来が好きさ」。
岡井隆さんも指摘していましたが、初句7音の極端な字余りは見逃せないポイントです。
「それでも僕は」。
思い余ったような、畳み掛けるような感じがあります。
そこからにじむ青年性、青春性。
アンティーク時計に象徴される過去のにおいにも魅力を感じる…「それでも」「僕」は、
未来のもっている不確定さや、
夢や不安やあこがれや、
そんなきよらかな興奮が好き。

「それでも」「好きさ」「しんしんと」のサ行音のひびきも特徴的です。
サ行のひびきがまず伝えるのは、
雪のきよらかさ。
この歌の場合は、雪の降り積む音。
そして、未来を思う青春性を喚起しているように感じられます。
(白秋の歌でも、「君かへす朝の舗石さくさくと」の部分には、17音中サ行音がじつに6音を占めています。こちらは雪化粧の舗石を踏む音をあらわすとともに、ゆるされない関係でありながらも想いはきよらかなのだとアピールしている観があります。)
「それでも僕は」という思い募ったような初句7音のあとの「未来が好きさ」。
「好きさ」の3音は、母音が欠落してウィスパーっぽく聞こえます。
それでいてみょうに力強く、目をきっ、と見開いて、
時計たちを(こちらを?)見据えているようにわたしは感じました。
…やっぱり、時計は動いているのかもしれませんね。
過去と現在の境目を曖昧にしていきそうな、
そんな雪の降るゆうぐれどきに、
過去という時間を匂わせるアンティーク時計でありながら、
きちんと動いている。
そして、針の音がきこえる。
(すべてではなくて一部の時計だけかもしれませんが)
そこにしたたかな「未来」が象徴されているのかもしれません。


こんなふうに読んでみると、
山田さんの歌は、現代という時代や自分自身の生き方、
ひいては未来というものに、きちんと切り結んだ歌だという気がしてきます。


それにしても、雪という装置。
雪が過去と未来の両方へ橋をかけるイメージになっているところが
不思議で、すてきです。
ああ、「降る雪や明治は遠くなりにけり」…
いや、昭和は遠くなりにけり…
もはや平成も遠くなりにけり、かな。

✳️✳️✳️✳️✳️✳️✳️✳️✳️✳️✳️✳️✳️✳️✳️✳️


北原白秋と山田航、100年のときを隔てた、
2首の「雪の歌」を読んでみました。
やっぱり時代の感性というものが
しっかり歌には表れるものだなぁ。
つくづくそう感じたのでした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?