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[母親が育った街:官営八幡製鉄所が輝いた時代]

【官営八幡製鉄所の全盛期】

時代は、八幡製鉄所の全盛期

その頃の八幡製鐵所は「官営八幡製鉄所」と呼ばれた程で、

第二次世界大戦のアメリカによる原子爆弾は
実は、北九州市の八幡製鉄所を目標にされたが、
その日が曇り空だった為に、長崎への投下となったとの話が伝わっている

溶鉱炉から出る煙が八幡地区全体に立ち込めて、
洗濯物や、目の病気の患者さんが多数居られて・・・

八幡製鉄所と言えば、1901年に官営八幡製鉄所の作業開始から始まった
【起業祭】昭和60年に市民の祭りに生まれ変わり
『まつり起業祭八幡』となる
本当に大々的な祭りです♪♪。

私事に成りますが、
母の生まれ育った実家が八幡製鉄所の近くで
母の父親は、=高校の時代には=東京帝国大学英文学科を卒業して、
1896年から第五等学校(熊本県)の英語教授として教壇に立った
【夏目漱石さん】に学び、
その後、京都大学卒後(医学部)に
大病院の開設に携わり、

門下生の一人で、
東京大学を首席で卒業(恩師の銀時計)し、
その後東京商船大学教授となった楠順三の嫁にと、
母の妹と結婚させました

そしてその後医院を開業した後に、
母の弟が眼科病院を開業、
また、その子供(私の従弟)も眼科病院を開業しました

・・・
その時代の八幡市は、目を痛める患者さんが多く居られ、
叔父の病院も朝から患者さんの列ができていました

前にも申しましたが、
叔父はそんな毎日毎日の診療に(眼科医院)
肉体的・精神的にも疲れて、
毎週土曜日・日曜日には京都旅行を(小倉駅~京都駅の)続けて、安らぎを取り戻したのでは!

私のその当時の感想は、
京都に家を持てば良いではないのかな〜と思いましたが?

八幡と言えば、宇宙のテーマパークで【スペースワールド】が誕生して
サターンや、スペース・アイ等(今は閉鎖されていますが)
八幡製鉄所の一部空き地を利用した娯楽施設が整備された

また、自慢の皿倉山から望む夜景は、八幡製鉄所の灯りと共に
北九州市(八幡西区・八幡東区・戸畑区・若松区・小倉北区・小倉南区)を
全貌出来る

現在は溶鉱炉の火は無いのですが?

最高の夜景です

その後は、今話題の(米国鉄鋼大手USスチールの買収問題で)、
新日本製鐵に生まれ変わったのです

【また脱線致します】
私の自慢話に成りますが・・・

八幡製鉄所の社宅を(大々的な団地)をかなり離れた地域に
(宗像郡福間町と宗像郡津屋崎町宮地嶽に戸建て住宅を)建てました

当時。八幡製鉄福間団地と、八幡製鉄宮地嶽団地の登記関係(建物表示登記)を依頼されました
(何百棟もの)

また横道に外れてしまいまして、申し訳御座いません

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