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『スィート・ベイビー・ジェームス』 ジェームス・テイラー


 僕はギブソンのアコースティック・ギターを購入しようと思ったことが何度かある。拓郎やジョン・レノンが使っているところを見て単純に格好良いと思ったし、色艶もよくアメ色に輝くジャンボギターを抱え、シャウトするミックなんか見ていると喉から手が出るくらい欲しくなったものだ。しかし、最後の最後にギブソンのアコースティック・ギターに手が出なかった理由は、いくつかある。
ギブソンのアコは、前述の通りシンガー向きなんじゃないか、ということ。
そういえばギタリストでギブソンのアコを好んで使う人ってあまりいない気がする。
日本人では、吉川忠英や佐橋佳幸、チャボなど数えるくらい。(ギタリスト向きではないのかなぁ)
そして、
「ギブソンのアコースティック・ギターは、当たり外れの差が激しいのであまりお勧めできませんねぇ。でも、ジャキジャキとカッティングをした時の快感はギブソンでしか味わえませんよ。」

「ネックが細いからエレキギターを弾いている人からアコに移る場合は好評ですね。」
「見た目が派手ですからステージング向きですね。」
・・・すべて行きつけの楽器屋さんの言葉。
 確かにマーチンと比べると恐ろしく雑に作られている気がする。テキトー。
でも、先ほどの楽器屋さんの言葉で、ギブソンでしか味わえない快感の音というところは、同意する。

 ギブソンJ50というサイド&バックがマホガニーで形成された有名なモデルの極上の音を堪能するなら、ジェームス・テイラーの『スィート・ベイビー・ジェームス』(1970)を聴くべき。

 ストローク、アルペジオ、カーター・ピッキングなどどんな弾き方をしても、ギブソンJ-50の音が心地よく響く。低音がちょっとつぶれ、自然とコンプレッサーがかかったような音。高音はシャリシャリと軽い。
この音に魅了されたミュージシャンはたくさんいるだろう。
ジェームス・テイラーの落ち着いたヴォーカルが、1970年代初頭の疲れきったアメリカを癒す。
そう、あの頃はみんな疲れきっていたのだ。歌は内省的になり、内へ内へと発信の矛先を変えていった。そんな私小説のような作風にファットな音よりも、軽い乾いた音がマッチした。
ジェームス・テイラーの朴訥としたヴォーカルが、フォークともカントリーともいえない雰囲気を醸し出していた。
 ベトナムや公民権で揺れ動くアメリカでは、メッセージ性の無い音楽は認められなかった時期があるという。しかし、ジェームス・テイラーやキャロル・キング、ジャクソン・ブラウン、ジョニ・ミッチェルといったアーティストを好むファンは、メッセージ性がなくとも日々の生活や人物描写に優れ、音楽的に高度であれば、その作品を評価した。これがシンガー・ソングライター・ブームである。

 『スィート・ベイビー・ジェームス』の中にジェームス・テイラーの実体験を基に制作された「ファイヤー・アンド・レイン」という作品がある。この作品は、彼が重度の心身症で長期療養していた時代にそこで知り合ったガール・フレンドが、後年亡くなった事を知った際に作られたもので、
“僕は炎や雨をくぐりぬけてきた…でも、また君と会える日を夢見てきた”
それは、彼女の死がまるで自分の責任とも言わんばかりに歌い上げる。
こういった内省的な部分は、誰にもあることで、その共感が彼の作品の評価になった。

 ギブソンの特徴的な乾いた音が、心に響く。そんなアルバムである。



2006年10月30日
花形

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