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神の像と類似性

神化思想において、創世記1章26節は非常に重要な聖句です。

「神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」"(創世記 1章26節、新改訳2017)

第一に、「われわれのかたちとして」とあるが、この「かたち」はギリシア語聖書では「εικων」(エイコーン)が使われ、「像」「映像」という意味です。

第二に、「われわれの似姿に」とあるが、これは「ομοίωσης」(オミオシス)で、「似ていること」「類似性」という意味です(七〇人訳ギリシア語聖書)。

即ち、神が人間を創造した時、神の「像」(εικων)として、神に「似せて」(ομοιωσης)造られたのです。

私たちは神の「像」として、神の「類似性」を持ち、霊・魂・肉体の構成要素に構造化されています。これはキリストにある自由な意志による服従へと無限に開かれています。

神の「像」として造られた私たちは罪とその結果である死性に落下して「像」を失いました。

"御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。"(コロサイ人への手紙 1章15節、新改訳2017)

キリストこそ、「神の形」「神の像」(εικων)であり、キリストの真実の故に私たちは「神の像」を回復させられます。

「神の類似性」(ομιωσης)は楽園から追放された後も人間に残されていますが、それだけではなく、キリストにある自由な意志によって再形成され、神に向かう方向へと変容していくのです。

"その栄光と栄誉を通して、尊く大いなる約束が私たちに与えられています。それは、その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。"(ペテロの手紙 第二 1章4節、新改訳2017)

「神のご性質」は「φυσις」で「自然の性質」「本性」という意味です。

"愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。"(ヨハネの手紙 第一 3章2節、新改訳2017)

したがって、キリストを信じた私たちの「本性」は「キリストに似た者になること」であり、「神の類似性」は聖霊によって善に向かって変容・再形成されていくのです。

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