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カメラは撮る人を写す

「カメラは撮る人を写しているんだ」という本が出ると聞き、「やはりそうなのか!」と思った。

 ちなみに私が撮るのはほぼ人物だけだ。

 子どもが最も得意で、とある保育園の写真係を14年間やっていた。

 毎年、地元の美術展に写真を8点ほど出し、見に来てくれた知り合いの方などから「宮庄さんの子どもに対する優しい気持ちが表れていますね!」とよく言われていた。

 撮る際には、子どもたちの楽しそうな表情、嬉しそうな表情、何かに夢中になっている真剣な表情、悲しくて泣いている姿など、子どもの感情が動き、それを素直に表現しているところを狙っている。

ローカルのコンテストで優勝した写真。被写体は息子。
学生時代に撮った近所の可愛い女の子。

※保育園の写真は掲載許可を取れていないの上げられない


 特に感情を込めて撮っている意識はないが、心の中には「可愛いなあ~!」「面白いなあ~!」「子どもらしくて素敵だなあ~!」などの感情は湧いている。

 私のその時の感情が子どもの姿に影響を与える訳ではないので、写真から私の気持ちを感じることができるということは、その切り取り方の中に私の意図や感情を感じるということなのだろう。

 私の撮影意図や感情を感じさせる要素としては「シャッタータイミング」「構図」だ。

 見る人はそこに私の撮影意図を感じ、私が子どもを大好きで、愛情を持って撮っていることを感じる。
 そして、私と同じような優しい気持ちになってくれる。

 以前、とある病院の廊下に写真を展示したことがあった。
 感想を書いてもらうための紙を用意しておいたら、患者さんから「子どもたちの姿に癒された」「元気をもらった」といったコメントをたくさん頂いた。

 自分の撮った写真で人にいい影響を与えられる。エネルギーを与えられる!

 写真って、実は大きな力を持っているんだなと感じた。

 しかし、風景や街中のスナップ写真ではそうは行かないのではないだろうか?

 画面構成の緻密さで撮影者の性格は分かるかもしれない。
 何を撮るかでその人の思想も伺い知れるかもしれない。
 しかし、撮影者の感情まで読み取るのは難しい気がする。

「カメラは撮る人を写す」との言葉は、主に人物撮影、その中でもスナップ撮影に当てはまるものなのではないかと思う。スタジオで作り上げる、形だけ美しい写真には当てはまらないのではないだろうか?

 私は、自己満足で終わる写真には存在価値がないと感じているので、これからも、世の中にいい影響を与えられる写真を撮り続けたい。

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