掌編小説『雨は病んだ』

        あらすじ

ある日ある時を境に、世界中のありとあらゆる場所で雨が降り止まなくなった。原因究明を期して雨水を徹底的に調査した結果、水そのものに異変が生じていると判明。その水を飲むと死ぬのだ。突然の水不足に陥った人類は懸命かつ冷静に知恵を絞り、いくつかの取り決めを作った……。


         本文

 小学六年生になる原田仁一郎はらだじんいちろうは、カーテンを開け放つなりため息をついた。
「今日も雨か」
 つぶやいたそのとき部屋のドアがノックされた。母親が起こしに来た。おはようの言葉を交わしたあと、ベッドから出て窓を指差す。
「また雨だよ」
「そうね」
「天気予報は?」
「変わらないわ。明日もあさっても雨。一週間後もずっと」
「つまんないの」
「しょうがないでしょ。さ、早く来なさい。朝ご飯が冷めてしまうから」
 母親の声にいらいらが含まれていると感じ取った仁一郎は、時計をちらっと見て自分が朝寝坊していないことを確かめた。すると考えられる原因は。
光子みつこが久しぶりにやっちゃったの?」
 三つ下の妹の名前を出して聞いてみた。
「そう。二ヶ月ぐらい大丈夫だったのに。まあ年齢から言っておねしょは仕方がない。折角いいパジャマを買ったのに、途中で脱いじゃうのよ」
「ていうことは、ベッドに染み込んだ?」
「そうなの。このあと、大仕事だわ。機械に掛けて脱水しなきゃ」
 仁一郎はしゅんとする妹の姿を思い浮かべて、同情した。今は春休みだから、一日中母親と顔を合わせることになる。
「――仁君、スウェットパックを忘れてる」
「あ、いけね」
 すでに廊下まで出て数歩歩いていたが、慌てて部屋に戻り、ベッド脇にある器具から袋を取り外した。中では少量の液体が液面を揺らしていた。

 世界に異変の兆候はなかった。
 あったとしても誰も気付かなかった。振り返ってみると、人間の寿命は人種や国に関係なく短くなり始めていたが、異変との因果関係は証明されていない。
 ある時期から、雨がやまなくなった。災害を起こすほどの勢いではなく、しとしとしとしと、連日降り続けた。日本はちょうど梅雨のシーズンに入ったところだったので、まあこんなこともあるかな程度の認識でいた。ところがおよそ十日前後で、異常が露わになった。
 水が飲めなくなったのだ。
 まず、味が付いた。苦いような甘みで、いつまでも舌に残るという。とはいえ、それだけならどうにかなっただろう。
 飲むと命に関わることが分かったのである。人間の場合、体重の五百分の一ほどの水を口にすると、ほとんどが三日前後で死に至る。文字通り、致命的な欠陥だ。
 当初は浄水場への毒などの混入が疑われたが、水質検査をしても問題は見付からず、また世界中で同時多発的に起きた現象であることから、毒は否定された。
 原因究明よりも何よりも、現実的に水が飲めなくなる緊急事態に世間は大混乱に陥った。懸念された通り、人間以外の動物も水を受け付けなくなっており、次々に斃れていった。程なくしてやまない雨が降り始めるよりも以前の段階でパッケージされた水は飲んでも大丈夫だと分かり、一気に値が高騰。争奪戦が始まった。このときもう少し慎重かつ冷静に対処をしていればまだよかったのかもしれない。消費した水の多くは汗や尿などの形で廃棄された。
 やがて判明したのは、自然に帰った水は二度と飲めなくなるという事実。雨にしてはならないのだ。大地に落ちてきたそれが地下水になろうが植物に吸収されようが、再び蒸発して雨に戻ろうが、最早二度と飲用に適した物ではなくなる。野菜も食用に適さなくなってしまう。
 判明した時点ですでに手遅れと言っていいほど、膨大な量の水が自然に戻されていた。
 雨水が駄目なら作ればいいという発想は当然出て来た。まず、湿度の高い空気を冷やし、大量に結露させるというシンプルな方法が採られた。が、こうしてできた水は飲めなかった。雨と同じらしい。
 ならばと化学反応が試された。水素と酸素を適切な割合で混合し、爆発させる。現状では結露方式よりコストが掛かるが、背に腹は代えられない。だが、この方法で得られた水もやはり飲用に適さなかった。
 ここに至って、水質調査の最優先事項は飲めない水の特定から飲める水探しに、完全にシフトする。
 結果、雨が降り止まなくなる以前から存在した水及び氷は、飲むのに支障がないと推定された。ただし、自然界にあった水はすでに雨が混じったため、海水を含めてすべて飲用には不適となっていた。
 それ以外では動物の体内にある水分は、何ら問題がないことが証明された。
 以上を踏まえて、世界の水情勢は大きく変化し、国際的な取り決めがなされた。極地の氷を一定量切り出して飲料水にし、各国に分配。国は水を国民に配給する。そして人々は家庭での飲料水リサイクルを徹底することが求められた。破ると罰則を定めた国も多数あったが、そもそも誰もリサイクルを怠りはしなかった。しなければ水が飲めなくなり、最悪死ぬのだ。
 そのリサイクル手段だが、小便は言うまでもなく、大の方からも搾り取り、一滴の汗も無駄にしない仕組みができあがった。寝汗も逃さぬよう、睡眠時はナイロン製の袋に入る。初期は文字通り繭のような袋に全裸で入って眠ったが、これでは寝付けないという人が多数出たので、パジャマ型のサウナスーツめいた袋が開発され、ヒットした。
 そうした排泄物を集め、飲み水に変えるリサイクルマシンは家電の必需品となった。通常は一家に一台あればいいが、他人の排泄物から作られた水は生理的に受け付けない無理だという人向きにパーソナルタイプの機械まで開発され、なかなか好調な売れ行きを示している。

 仁一郎は一晩分の寝汗などが貯められたビニールパックを持って行き、リサイクルマシンにセットした。毎朝、忘れてはいけないことだ。飲むのに適した水にリサイクルするには時間が掛かる。セットし忘れると、その日使える分の2~3割を我慢しなければいけない場合もあるくらいだ。
 それから洗面台に立つ。水はもちろん非飲料水を使う。水道を通って流れてくるのは、独特の色と匂いを付けた非飲料水と決まっているのだ。カランを捻って蛇口から水が出て来るのは昔と変わりがなくても、決して飲んではいけない。
 洗顔は大丈夫。目などに非飲料水が染みても人体に害はない。入浴も同様だ。一方、うがいは少々注意すべき点がある。一日に三回までと定められている。それ以上うがいをすると、口中に残った水が喉を通って身体に入り、悪い影響を及ぼすケーズがあると報告されているためだ。四回のうがいで生死に関わるほどの症状に陥る者はわずかな割合なのだが、万全を期すためのルールである。
 ちなみに、扱い方を誤ると死を招く水を水道で流すことに問題はないのだろうか? 毒薬が労せずして、いつでも入手可能な状況に外ならないのだから、当然の疑問だろう。
 答は、懸念には及ばない、である。雨水や水道からの非飲料水を飲んで死んだ場合、原因は検査で簡単に判明するし、死亡時刻も極めて正確に割り出せる。非飲料水について言えば匂いのおかげで、自然に存在する水について言えば独特の苦みのおかげで、それぞれ密かに飲ませるのは困難である。唯一、自殺の手段として用いられてはどうしようもないが……。
「はい、今朝の飲み物。こぼさないように気を付けてね」
 精密に計量された液体はキューブ上に凍らされ、決まった個数をコップに入れて溶かし飲む。コップは、仁一郎のような子供が使う物もずっしりと重く、ちょっとやそっとでは倒れないようになっていた。さらに慎重を期し、固定型の蓋をしてストローで飲むのが一般的になっている。
「いただきまーす」
 妹の光子はすでに着席し、もそもそと食べ始めていた。しゅんとしているのが傍からでもよく分かる。だけど飲み物の量は減らされていないみたいだからよかったじゃないか、と仁一郎は思った。
「今日はおじいちゃん遅いね」
「そうなの。最近、起き出してくる時間が不安定で食事の用意がしにくいったら」
 祖父の定位置である食卓の上座が空いている。父親はとうの昔に会社へ行っている。祖母は十ヶ月ほど前に、まだ毒性の判明していなかった自然界の水を口にして亡くなった。健康のためと言って飲んでいたコップ一杯の井戸水だった。
「仁君。食べ終わったらでいいから、一応、おじいちゃんの様子を見に行ってくれる?」
「いいよ。寝てたらどうするの」
「うまいこと言って起こしてくれたら助かるんだけど。無理そうならいいわ」
「分かった」
 およそ十分後、仁一郎はごちそうさまをした。光子はまだ食べていた。
 さらに二分ほどあと、祖父の部屋から走って食堂に戻った仁一郎は、興奮気味の声で母親に告げた。
「お母さん! おじいちゃんが息してないみたいなんだけど」
「え?」
 母親は洗ったばかりの皿を取り落としそうになったようだが、危ういところで掴まえ、事なきを得た。

 原田仁一郎の祖父・友寛ともひろの遺体は速やかに解剖に回され、半日と経たずに検死結果が出た。老衰とされた。
「よかった。老衰で」
 原田家の誰もが安堵し、喜びさえした。このときの台詞をより正確に表すとするなら、「よかった、非飲料水による死亡じゃなくて」となるだろう。恐らく、友寛の死が他殺であっても、この気持ちに大きな差はない。
「法に従い、ご遺体を思慕里しぼりに掛ける手配をします。お別れの言葉がございましたら、今の内にお願いします」
「いいえ」
 係官が促すのに対し、仁一郎の父も母も妹も、そして仁一郎自身も首を横に振った。
「できる限り早くお願いします」
「かまわないので?」
「はい。亡くなったからの時間が早ければ早いほど、美味しい水が多く取れると聞きましたので」

 飲み水が不足する世界で、亡くなった人間もまたリサイクルされる。日本名“思慕里”という機械に通すことで、遺体からは飲用に適した水を搾り取れる。若い方が水分は多いが、年老いていても身体が大きければ遜色ない量が得られる。
 なお、非飲料水が原因で死亡した遺体は、思慕里に掛けても飲料水にはならない。出て来るのは毒になった水である。

 終わり

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