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変身①

 目覚めたらケモ耳少女になっていた男性の話。

※当記事、及び関連する私の著作物を転載した場合、1記事につき500万円を著作者であるFakeZarathustraに支払うと同意したものとします。

※本作品に於ける描写は、現実的な観点での法的な問題、衛生的な問題をフィクションとして描いており、実際にこれを真似る行為に私は推奨も許可も与えません。当然、その事態に対して責任も負いません。

※フィクションと現実の区別の出来ない人は、本作品に影響を受ける立場であっても、本作品の影響を考慮する立場に於いても、一切の閲覧を禁止します。

※挿絵はDALL·Eを用いています。


 ある朝、田端嶺が気がかりな夢から目ざめたとき、自分が布団の中で小さなケモ耳の少女に変わっている事に気づいた。

 彼は十歳ばかりの少女のようにすべやかな肌を持ち、頭を少し上げるとささやかな双丘が見えた。掛け布団のなかにちんまりと収まっていて、ぶかぶかのパジャマがはだけて、まだやっと持ちこたえていた。
 普段の大きさに比べると情けないくらいか細い両腕が、自分の目の前に艶やかに光っていた。

 俺はどうしたのだろう? 心の中で三度訊ねる。
 夢ではない。独身男性のつましいワンルームが目の前に広がっている。
 これが変異症なのは間違いなかった。

 田端は非正規労働者だった。
 新卒で入った会社で鬱病を発症し、そのまま人生を転げ落ちていったロスジェネだ。
 ロスジェネは努力をしてこなかった世代だと笑われているあの世代だ。


 団塊の世代と団塊ジュニアの世代の雇用を守るために、効率的に棄民された世代だが、全ては努力論で片付けられた。
 それが本当ならば、ある一世代が何らかの事情で努力を放棄したことになる。
 それについて誰も納得する説明をしているのを聞いたことがない。
 偶然、1970年から1982年乃至1984年に産まれた人間が、特異的に屑が多い世代だということになっている。
 だとしたら、その時代の教育や社会が決定的な間違いを犯していたということになるが、その責任を問う人間はいないし、その責任を自覚している年配の世代などいつぞ見かけた事はない。

 ただただ、世界は偶然、その時期の日本人を屑にして、偶然に社会を悪くしたのだと言うのだ。
 にもかかわらず、それについては努力しなかったのが悪いと言われる。それは偶然とは言わないらしい。
 都合のいいところは結果論で語る人間の言うことなど、誰が信じられるだろうか?


 人生を再建しようと言う努力は、悉く失敗し、そして失敗した努力を誰も努力と認めない。
 安アパートの一室で、ギリギリの生活をしている。
 世の中に希望はない。これ以上何も良くならない。
 身体は衰え、そして消えていくだけだ。

 誰かの所為にしたところで、誰も共感してくれないし、そして無意味な反論ばかりが舞い込むだけだ。
 人生に意味はなく、皆、自分を納得させる為に日々無駄な努力をしているだけだ。
 自分は何か達成した人間なのだと思っていれば人間、どんな無意味な人生にも耐えられる。お金があるとか家族があるとか業績があるだとか。
 俺のような人間は、結局そういうモノを何一つ手に入れられなかった。
 敢えて言えば、犯罪にも手を染めず、ただただ恨みを捨て、怒りを捨て、淡々と人生を消化していると言うだけだ。これは多分、無私の祈りのようなものだ。

 世界が滅べと思った事も数多くある。
 自分のような苦しみを万人が味わえばと思った事もある。
 だけど、そんな事を自分の慰みとしていても、虚しさしか残らない。
 俺はままならない人生を、続けられるだけ続けている。それだけで自分が自分を褒められる。それだけでいい。
 自分が自分さえ許していれば、苦しみと怒りと恨みに耐えられる。


 そして、ここに来ての変異症だった。
 変異症は原因不明の病で、三十年前より年間一億人に一人ぐらいのペースで日本のみに発生している。
 厚労省の統計が間違っていなければ、俺は四十人目の発症者と言うわけだ。

 変異症は原因不明だ。
 ウィルス性でも細菌性でもない、少なくとも感染症の疑いは――本当に未知の病原体が存在しなければ――否定されている。
 疫学的にも感染症がこのペースで広がるとは考えにくい。
 遺伝子的なアプローチでも、確たる共通点はないのだが、発症者が(日系の)日本人に限定されている事を考えると、その可能性を否定しにくい。
 気候的な問題なども考慮されるが、それでは日本に住む全ての人が同等のリスクを持つ事になる。
 三十年で四十例。あまりにも情報が少なすぎる。

 医学的には「通常は潜性の未知の因子が、何らかの原因で動き出した」と説明されている。
 正式名称は「特発性体組織再編症」と呼ばれるが、変異症と呼ばれるのが一般的だ。


 真面目に研究している医者が分からないと言っているものにも、何かしら答えを見つけたいと思う人間は多い。

 人間、誰しも突発的な不幸に見舞われる可能性がある。本当に偶然に、自ら原因を作るようなことをしてなくてもそれは自分に降りかかるものだ。
 しかし、人間というのは、自分にそんなリスクが存在しないと言う理屈にはとても甘い。

 女性が街中でレイプされれば、夜中の路上を若い女が歩くのが悪いとか、誘惑させるような服装をしているのが悪いとか、人の不幸に理由を付けたがる。
 それはロスジェネに対する努力論と同じだ。
 努力論の便利なところは、自分がジャッジしている立場だと理解すれば、自分は常に合格点で、相手は常に不合格に出来る。
 だから、人生の艱難に直面した人に対して、努力論を振りかざす人間は、必死に「自分は努力している側の人間だから大丈夫」と言い聞かせているのだ。

 「世の中は須く平等あれ」と言う"ありがたい教え"を肯定するために、現実が平等でない理由それが本人の悪さによるものだと言う考え方だ。
 自分は平等に扱われ、そして自分が見下す人間は平等でなくていい理由があると言いたいのだ。

 そこで便利ツールである"努力論"が出てくるわけだ。

 一面的にはそれは正しいし、努力の存在自体を否定しない。
 今更実家の太い家の人間を妬む気はない。心身の健康とか、生活環境とか、文化的なモノに対する接触機会とか――それを今更悔やんでも仕方ない。
 その上で、自分の努力は自分で評価するしかないし、その上で、自分の人生を納得させる必要がある。
 人のジャッジを信じても仕方がない。

 ある不幸な人が、自分をロスジェネだから、女だから、障害者だから、人種が違うからといろいろと言い訳することは出来る。
 しかし、そんな言い訳がいつだって聞き入れられる訳ではない。
 特に、俺のような"この世代の男性"が何を言ったところで、誰も聞き入れないし同情もしない。
 だから、だから、世界が平等なんて考えは捨てている。もっと言えば、人類が普遍的に平等を望んでいるだなんて望みを捨てている。
 だけど同時に、俺はその美徳を心より愛している。

 世界は平等であるべきだ。だけれど、それは絶対に叶わぬ夢だ。
 でも、そのたった一つの夢を持つ事が、俺を犯罪者にしなかったし、卑劣漢にしなかったのだと信じている。

 いずれにせよ、俺は二重の意味で差別される事になるのは間違いない。
 ロスジェネの元おっさんが、見た目だけ少女になっていて、そして、それは"何か悪いことをしたから"発生したのだと。
 そして同時に、感染性であることが絶妙に否定されないこと――絶対出ないことに科学者は絶対と言わないから――は、人々に変異症に対する忌避感を与えていた。


 会社にメールを入れ、国の専門窓口へと電話を掛ける。
 すると暫くして、防護服を着た救急隊員が駆けつけ、そしてややぶかぶかな病衣を着せられ、病院へと"連行"された。

 こういうことがあるから、変異症への差別があるのだなと思いつつも、自分がそれを診る側の立場なら、やはり怖いのはそうだ。
 もし自分が変異症ともなれば、自分の人生で築き上げてきた全てを失うことになる。目の前のこの惨めな"元男"のように。
 "幸い"俺が築き上げてきたのは、倹しい生活だけだけれど。

 血液や髄液、尿や便や鼻水や涎。ありとあらゆる体液を用いて、検査しうる限りの病原菌を検査した。
 その結果は何だかんだで一週間近く掛かった。
 その間、俺は何処とも連絡を取れずに、ただただ病室で寝て起きての生活をするしかない。
 勿論、病院の人たちは親切だ。
 親切だけれど、危険な患者の一人には違いない。
 会話は少なく、そして足早に立ち去っていく――ただ悲嘆に暮れてそう思えただけかもしれないが。

 その一週間の間、考えることは人生が終わったということだ。
 恐らく自宅も追い出されるし、会社もクビだろう。様々なサービスが解約だろう。
 変異症を適切に保護する法律はない――なくはないが、それが人権にどれほど配慮しているかは、一考の余地がある。
 スマホを片手にあれこれ調べると、グループホームで補助金と年金を得ながら静かに暮らせと言うようなことが書いてある。

 平均五人程度のグループホームが全国に八カ所。
 俺の街にもあるようだ。
 二百万都市に数人の変異症患者。まぁ、見かけないのも道理か。

 グループホームに入るのは、半ば強制的なものだろう。
 だって、変異症患者と新しく賃貸契約をしてくれるところなんて、普通に考えて存在しない。
 常識的な収入の仕事もあるとは思えないから、年金だけで生活出来るとは思えなかった。


 変異症について調べれば調べるほど、世の中の偏見が強いことが分かる。
 今までもあまり気乗りしない話題だったが、いざ自分のこととして調べれば、「死なないって言うなら、人体実験に使えばいいのに」とか、「ロリコン相手の慰安に使えば、性犯罪が減るだろう」と言うようなことまで書かれている。
 「自分はならない」と信じている人間に対しては、いくら酷く当たっても、自分が後悔することになる可能性はない。
 世の中の差別、偏見は大抵、そういうところから来ている。
 「自分は大丈夫だ」と言うことを強弁する為に、より無茶苦茶な理屈を添えて行く。

 変異症の差別に関する話題は、概ねそういう無茶苦茶な理屈ばかりだ。
 具体的な統計もないのに、「○○な人間が変異症になる」と断定する人ばかりだ。
 別段専門でもないのに、何らかの権威にすがって、差別を堂々と正当化させるのだ。
 何故、社会学者が心理的原因について明言できるだろうか? イギリスの大学の研究チームとは具体的に誰だろうか? 海外メディアの日本支部の人間が書いた記事を「海外ではこう伝えられている」とロンダリングするのに恥ずかしさを覚えないのだろうか?
 どんな嘘でも何度も何度も言えば、それしか目に付かない人が出てくる。
 どんな悪意も、自分の心まで誰も証明できない。

 あぁ、誰も共感なんてしてくれない。
 いつだって同じだ。
 共感なんて俺には存在しないし、もはや求めもしない。
 だから自分の人生は自分の努力で、自分自身に納得させる他ない。
 自分のコントロールにないものは信用しても仕方がない。


 マスクなしでの会話を許された時、漸く一つのコントロールを取り戻した気持ちになった。
 密やかだけど、一人で嬉しい気持ちになった。

 それから身体検査を行う。
 体格も体力も十歳程度の少女のものになっている。
 知能指数的には年齢並み。
 特に記憶障害や脳組織の問題もなく、身体に関しては至って健康だ。
 耳は人間の耳がメインで、狐耳は意識すると使える――その割に、耳自体は無意識でもピクピクと動くのだけど。

 健康。健康こそが変異症の決定的な問題だ。
 (恐らく大きな欠損でもなければ)傷はすぐに直るし、病気も決定的な毒物を飲むとかでもしなければ死ぬことはないし、事の大小で差はあれど見事に完治する。
「脅すつもりはないのですが、濃硫酸を飲んで自殺を図った"患者"は、一ヶ月程度で完治したそうですよ」

 変異症に対する幾つかの統計を見せてもらう。
 認知できている限り、自殺を図った者は十八人。そのうち、二度以上の自殺未遂をしたのは六人。いずれも死に至らず、そして永続的な障害も残さなかったそうだ。

 三十年前の患者は、今でも十代の容姿と体力と健康度合いを維持している。
 これを"奇跡"と呼ぶ人はいるのだが、問題はその回復の機構が未だに説明できない。
 そもそも、採取した遺伝子は変異前と後で一切の変更点がない。
 採取した体組織を培養したところで、再生能力は失われるし、特異なタンパク質や何らかの活性を持った物質の存在も確認されない。

 三十年、延々研究している。
 不老不死は人類の夢だから、その研究には幾らでもお金が集まる。
 実際、何人か海外の研究施設へ渡航した人すらいる。

 "年金"はその研究協力に対するささやかな対価だ。
 尤も、"何も分からない"を三十年続けているので、その情熱もずっと下火になっているのだけど。


 不老不死――人は自分では得られないものを手に入れた人を妬む。
 その妬みもまた、差別の一端である。
 本質的には実験動物扱いだが、だからこそ、「屑はせめて人権でも捨てて役に立て」と言う発想になるのだ。

 妬みによって人権を奪い、人権を奪われる恐怖から差別を肯定する。
 全く無意味な営みだけれど、多くの人間は誰かを差別しないと、誰かと比較しないと、自分を肯定できないのだ。
 自分一人で自分を肯定できる人間――自分がどういう人間であっても、自分がどういう人間だと理解していても、それでも自分を肯定出来る人間は、一握りしかいないのだ。

 それはそれとして、別の"祈り"なのだろう。

 自分は元々何者でもないし、そして、本当に何者にもなれないのだ。
 自分がどれほど金持ちになろうと、何かしら偉業を成し遂げようと、それが百年千年覚えられているとは思えないし、何かに記録されたところでそれは、自身の名前が刻まれた記録以上のものではない。
 誰も過去の何者とも対話は出来ない。

「誉れとは、記録に値する行動であり、読むに値する記録である」

 偉人の特別な部分だけを掬い取っていけば、いつか人間を超える存在になれるだなんてのは幻想だ。
 どう頑張ったところで、人間は人間だ。
 人間の種としての遺伝子は、ここ何万年も大きく変化していない。
 そして、人間をモデルにAIを作れば、人間と同じ欠陥を持つだろう。
 高機能なコンピュータが出来ても、より素早く人間と同じ失敗をするだろう。
 それはつまり、砥石の目より細かく研磨するのは、同じ砥石を使う以上、原理的に不可能なのと同じだ。

 にもかかわらず、人は常に自分こそは特別な存在と思いがちだ。
 自分にだけの視座、自分にだけの発想。そんなものが本当に存在していると得意げになる。
 そして、自分とは違う属性の人間には、それがないと決めつけ、そういう人間には価値がないのだと言い張るのだ。

 そうやって、人は自分の人生とか自分の価値を相対化させて判断する。
 自分自身が自分自身の価値に懐疑的だから誰かと比較したがる。
 しかし、人生の価値は具体的に比較できる性質のものではない。
 だからこそ、人はその代用変数にこだわり、そして「人から幸福と思われること」の方に重きを置くのだ。

 自分が幸福であることと、自分が幸福であると観察される事は、必ずしもイコールではないし、むしろ大きく隔たっている場合すらある。

 俺がこの不老不死の身体を手に入れたことを、人はなんとかして「不幸な存在だ」としたがり、そしてそれを現実のものとするために、「人が先に死んでいくのは辛い」とか「人生のやることがなくなって絶望するだろう」と言う呪いを掛けていくのだった。

 俺の人生にとって、この一件の影響を上手く説明は出来ない。
 だけど以前よりもずっとすっきりした気持ちにすらなっている。

 ノイジーマイノリティの中の更なるノイジーマイノリティ。
 幾ら差別的に扱おうと、それで誰かに怒られることもない存在。
 ふと思えば、今までも同じで、そしてこれからも同じだ。
 そして、少なくとも働かなくても生きていく事は出来る。
 ならば、今のところ、この変化を肯定的に受け止めておこう。

 誰にも愛されないならば、誰にも増して自分自身を愛しよう。
 自分の人生を自分が肯定出来なければ、今後進むべき未来、何も肯定出来なくなるだろう。
 それは恐らく、愛されないことや肯定されないことよりもずっとずっと不幸だから。


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